断天下之疑(天下の疑いを断ず)(「陸象山文集」)
ホントかなあ。

天は人の上に人を造らず、てへり。
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時々こんなのも読んでるところを見せないと、スポンサーから怒られます。
塞宇宙一理耳。
宇宙に塞がるは一理のみ。
分けていえば「宇」が空間、「宙」が時間の、にいずれも無限に広いのを言うとされますが、
世界にはただ一つの「真理」だけが満ちているのだ。
ホントかなあ、と思うかも知れませんが、
上古聖人先覚此理。故其王天下也、仰則観象於天、俯則観法於地、観鳥獣之文与地之宜、近取諸身、遠取諸物、於是始作八卦。
上古の聖人はまずこの理を覚る。故にその天下に王たるや、仰いでは天に象を観、俯しては地に法を観、鳥獣の文と地の宜を観て、近くこれを身に取り、遠くこれを物に取り、ここに始めて八卦を作せり。
超古代の聖人(ここでイメージされているのは、原始時代の伏犠(ふっき)であろう)は、この宇宙に満ちた「真理」を理解したのじゃ。それで、彼が天下に王者として君臨すると、空を振り仰いで天体のかたちを観察し、下を見て大地の法則を観察し、鳥やケモノの模様、大地の成育するものを観察して、身近には自分の身にヒントをもらい、遠いところではもろもろの物体にヒントを得て、まずは「八卦」を創作したのだ。
八卦を使って、神秘の持つ力や動物の心理にも通じ、ことば、変化、かたち、占い、といった概念を整理して、人民たちを覚醒させたのである。
後世聖人、雖累千百載、其所知所覚不容有異。
後世の聖人は、千百載に累するといえども、その知るところ覚るところは異なる有る容(べ)からざるなり。
時代が後になってからの聖人(すなわち文王や孔子さま)も、数千年・数百年のいろんな積み重なりがあるとはいえ、その知るところ・知覚するところは、超古代の聖人と違いがあるはずがない。
代々の聖人は、符節を合わせるように、あるいはもともと一つであったように、同じ真理を認識してきているのである。
非真知此理者、不能為此言也。
真にこの理を知る者にあらざれば、この言を為す能わざるなり。
このたった一つの「眞理」を本当に知っている者(これは、例えば孟子のことでしょう)でなければ、この言葉(超古代とその後の聖人とが違わない、ということ)を言うことはできないであろう。
孟子にぐらいはならなければいけません。
所知必至乎此、而後可言通天下之志、定天下之業、断天下之疑。
知るところの必ずここに至り、しかる後に天下の志を通じ、天下の業を定め、天下の疑いを断ぜん。
この「真理」を知ることができたなら、いよいよ天下のひとびとの気持ちを通じさせ、天下のひとびとの仕事を確定させ、天下のひとびとの疑いを正してやることもできるだろう。
しかしながら、聖人たちははるか昔にこの世界から去ってしまい、
自此道之衰、学者溺於所聞、梏於所見、不能自照明徳。
この道の衰えしより、学者は聞くところに溺れ、見るところに梏(とら)われ、自ら明徳を照らす能わざるなり。
この「道」が衰えてしまってから、学ぼうとする者は、今そこで聞いたところに耽溺し、自分がさっき見たところに捕らわれ、自らの内面に本来的にそなわっている「明徳」をピカピカと照らし出すことができなくなってしまっているのである。
もう一度、自分の中にある真理を取り戻さなければならない。
己之志不能自弁、安能通天下之志、定天下之業、断天下之疑哉。
己の志自弁する能わざる、いずくんぞ天下の志に通じ、天下の業を定め、天下の疑いを能く断ぜんや。
自分の志すところ(「道」)を自分で理解できないでいて、どうして天下のひとびとの気持ちを通じさせ、天下のひとびとの仕事を整序し、天下のひとびとの疑いを正してやることができるだろうか。
いや、できない。
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宋・陸象山「与呉斗南」(呉斗南に与う)(「陸象山集」巻十五より)。天下の疑いを断じることができればいいですが、疑いだらけですからあんまり断じてはいかんのかも。
冒頭の「宇宙に塞がるは一理のみ」というのはチャイナ思想史上の有名なコトバなのですが、象山先生のお話だけでは自分の中にそなわっているはずの「真理」の中身が全くわからないんです。と文句言っていると、「中身は自分の中にあるんだからわかるだろう、なんでわからないのだ!!!!」と怒られるんです。
この点、朱子は、「それは自分の外にあるんだからわしの整理した四書五経で勉強しろ、なんでわからないのだ!!!!」というので勉強しなければいけないことだけはわかります。勉強したくはないんですが・・・と考え考えしているうちに、人生の十年ぐらいは過ぎてしまったような感じ。それよりは観タマやねこノルマの方が建設的でしょう。
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