犇麤二字(犇麤(ほん・そ)二字)(「桯史」)
こんな字、老眼で読めません。「ほん」と「そ」というんですか。ああもっと若いころならなあ、簡単に読めたのになあ。

忙しいとはウシの風上にも置けぬでモー。
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北宋のころですが、王安石は宰相として実権を握っていたとき、「字説」という自家製の字書を作って、
行之天下。
天下にこれを行う。
これをチャイナ中に配ることにした。
権力を奮って読ませる、というより、自信過剰でかつ使命感の異常に強い人なので、自分の説は絶対正しい、それを国中のみんなにも教えてやりたい、という気持ちだったのだろうと思われます。それにしても科挙試験もこの「字説」を基にして答えるように、というので、各地で混乱を惹起した。
「字説」は今遺っていないので読んだことがないのですが、例えば「波」という字は、「水の皮」である、水の表面の動きだから、といったかなり強引な説が多かったということです。これに対して、
では「滑」は水の骨なのか。
という問いが出されて、王安石は激怒したと言われております。
さて、当時、まだ若いころの蘇東坡が翰林院にいて、
一日因見而及之。
一日、因りて見てこれに及ぶ。
ある日、(この書物を地方に普及させるように決まったので、各地の役所への送り状を作るように、という)指示が来たので、内容をチェックしてみた。
「うーん・・・」
と首をひねって言った、
丞相賾微窅窮制作、某不敢知、独恐毎毎牽附、学者承風、有不勝其鑿者。
丞相は微を賾し窮を窅して制作するも、某は敢えて知らず、独り恐る、毎毎牽附にして学者の風を承け、その鑿に勝えざるもの有らんことを。
丞相さまは細かいところを突っつき、究極のところを見極めてお作りになったということだが、わしはそんなこと知らんわい。ただ、どの字もどの字も牽強附会な強引な説ばかりで、この本で勉強したやつらがその丞相の学風に従って、この書の中身をぎりぎりと穿鑿しはじめたときに、説明しきれない内容もあるのではないか、ということだけが心配だなあ。
と、いかにも蘇東坡らしい、にやりとしてしまいそうな皮肉ですね。
姑以犇麤二字言之。
しばらく、犇・麤の二字を以てこれを言わん。
試しに、「犇」(ほん)と「麤」(そ)の二字について、文句をつけてみよう。
「犇」(ほん)は「牛」三つから成りますが、「奔」と同じで、「うごめく、さわぐ、走り回る」というった意味になります。「麤」(そ)は「鹿」が三つ、「麁」(そ)の別字で、「鹿はある程度の距離を置く」ことから「はなればなれ」、「粗」と通じて「あらい、大まかである」と言う意味になります。
牛之体壮於鹿、鹿之行速於牛、今積三為字而其義皆反之、何也。
牛の体は鹿より壮なり、鹿の行は牛よりも速やかなり、今三を積みて字を為して、その義みなこれに反するは、何ぞや。
牛の体は鹿よりもでかく、大まかである。鹿の行動は牛よりも素早く、走り回る。さて、この字をそれぞれ三つ組み合わせて作った字が、お互い逆の意味になるのは何故だろうか。
「牛牛牛」が走り回るの意味になり、「鹿鹿鹿」が大まかの意味になるのは、おかしいではないか。---と勉強熱心な生徒たちから問われたらどうします?
王安石はこれを聞いて、
無以答、迄不為変。
以て答うる無く、迄(しばらく)変を為さず。
答えることができず、(よほど悔しかったのであろう、)しばらくコトバを失っていた。
党伐之論、於是浸闓。黄岡之貶、蓋不特坐詩禍也。
党伐の論はここに浸闓(しんがい)す。黄岡の貶は、けだし特に詩禍に坐するはあらざるなり。
新法党(王安石ら)と旧法党(蘇東坡、司馬光ら)の争いは、このあたりからじわじわと開かれた(「浸」は「ひたす」、「闓」(がい)は「ひらく」)のである。後に東坡は作った詩の内容が不遜だというので死刑、になるところを許されて黄山に左遷される(「烏台詩案」)が、これは単に詩だけを批判された、というわけではなかったのだ。
人間的な不信感だったのです。
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南宋・岳珂「桯史」巻二より。著者の岳珂、字は粛之、亦斎と号す、は南宋初期、というより中国史上屈指の忠臣として有名な岳飛将軍の孫に当たります。彼が北宋時代の名士たちの逸話を集めたのが「桯史」(ていし、と読みます)で、中には妖怪やら奇談やらもあっておもしろいが、他の史書では窺えない史実なども満載の名著です。これまでにも「桯史」からの孫引き、という文章はだいぶん紹介してきたはずなんですが、今日の昼間千円で買ってきたのでこれから孫引きしなくてもよくなりました。

よかったにゃ。
ありがとうにゃ。
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