中多虚空(中は多く虚空なり)(「廣陽雑記」)
一日サボって中抜きしてました。それにしても中身のないやつは多いです。我がことながら?心配になりますよ。

おれは中身が詰まっているぜ。
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中身の無いやつについて二三のこと。
凡木囲五六尺、長八九丈者、非数百年長養不成。即有成者、中多虚空。
およそ木の囲(めぐ)り五六尺、長さ八九丈なるものは、数百年長く養うに非ざれば成らず。即ち成る有るものは、中多く虚空なり。
目通りの周囲が1.6~1.9メートル、高さが25~29メートルにもなる木は、数百年かかけて育てなければ成育しない。すぐに成育したものがあれば、多くは中が空っぽ(うつろ)である。
ほんとでしょうか。
理論的には、
凡虚空起於内灌。
およそ虚空は内灌より起こる。
一般に、木の内部が空っぽになるのは、内部に水を灌ぐからである。
有天灌者自上灌注而下、有地灌者自下蒸湿而上、有人灌者中有朽眼、湿従而入。気蒸而上湿注而下、故大木即有十余株、可採用者不過三四而已。
天灌なるもの有りて、上より灌ぎて下に注ぎ、地灌なるもの有りて下より蒸して湿して上り、人灌なるもの有りて、中に朽眼有るに湿従して入る。気蒸して上り湿して注ぎて下る。故に大木は即ち十余株有るも、採用すべきは三四に過ぎざるのみなり。
「天の水遣り」というものがある。これは木の上から下に水を灌ぎ流す(つまり雨な)のである。「地の水遣り」というものがある。これは根っこから蒸散させて上に昇らせるのである。もう一つ、「人の水遣り」というものがある。(人間が水を遣るわけではなく)木の途中に朽ちて穴が開くと、そこから水が入り、上に向かって蒸散し、下に流す(。こうすると内部が空っぽになってしまうのだ)。このため、大木がたとえ十数本育ったとしても、建材として使えるのは三~四本にしかならないのだ。
・・・人材はもう少し率が高いでしょうか、低いでしょうか。
凡泛水諸禽、其脚中空外連。如鵞鴨之類是也。
およそ水に泛かぶの諸禽は、その脚、中空にして外と連なる。鵞鴨の類の如き、これなり。
水に浮かぶ鳥というのは、その脚が中空になっていて、外部の空気とつながっている(だから浮くのである)。ガチョウやカモのたぐいはこれである。
水辺諸禽、其脚皮半連。如鶴鷺之類是也。若雞不近水、則中実不連矣。李含英云。
水辺の諸禽は、その脚皮半ば連なる。鶴鷺の類のごときこれなり。雞のごときは水に近づかず、すなわち中実に連ならざるなり。李含英云えり。
水辺の立つ鳥は、脚の皮が半分つながっている(外部の空気とはつながっていない、と言いたいのでしょう)。鶴やサギのたぐいがこれでる。ニワトリは水に近づかない。その脚は中が詰まっていて、外気とつながらない。・・・これは李含英の説である。
・・・他の人の説だそうです。
次は、わたしが自分で実見したものである。
梟首之尸、棄之水中、則直立而不仆。水灌入腔中、出没動盪、甚可畏。
梟首の尸、これを水中に棄つれば、すなわち直立して仆れず。水の灌ぎて腔中に入れば、出没動盪して甚だ畏るべし。
さらし首になった者の胴体の方を水の中に捨てると、(中に虚空があるので)水中で直立して倒れない。首の穴から体腔中に水が入り込んでも、(立ったまま)水から出てきたり沈んだり、ふらふらと動いて、極めて気味の悪いものである。
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清・劉献廷「廣陽雑記」より。むかしのひとはこんな話好きですよね。なんでこんなことばかり考えてたんでしょうか。現代のひとは中身もあってSNSになんか騙されないし、「中抜き」で儲けているやつまでいるというのに。昔はスカスカのやつが多かったんでしょう。
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