12月2日 今日の焼き芋は不本意だった

白髪唱黄鶏(白髪にて黄鶏を唱う)(「東坡志林」)

秋田のクマ、捕まりました。すぐに人間に殺処分されたようですが、平穏な生活が戻ってよかった。なお、我々もやがて処分されます。人間にされる可能性もゼロではない。

金太郎に処分された状態。

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宋の元豊年間のことですが、

安徽・黄州の東南三十里(宋代の一里≒550メートル)に沙湖があり、そのほとりに螺師店という田舎町がある。わしはここに田んぼを買った。

因往相田得疾。聞麻橋人龐安常善医而聾、遂往求療。

安常雖聾、而穎悟絶人、以紙画字、書不数字、輒深了人意。

そこで、わしは言った、

余以手為口、君以眼為耳、皆一時異人也。

と。

病気が治った後、彼と一緒に清泉寺に出かけた。この寺は蘄水(きすい)城の門外二里ばかりのところにあり、王羲之が筆を洗ったという伝説の泉がある。この泉、

水極甘、下臨蘭渓、渓水西流。

そこでわしは歌を作ったので、聴いてください。もちろん、安常には文字で書いて示した。

山下蘭芽短浸渓、松間沙路浄無泥。蕭蕭暮雨子規啼。
誰道人生無再少、君看流水尚能西。休将白髪唱黄鶏。

「黄鶏を唱う」は、唐・白楽天の「酔いての歌―――妓人・商玲瓏に示す」の一節、

黄鶏催暁丑時鳴。

に基づき、快楽の日々が過ぎゆくことを嘆く、の意。

ちゃんちゃん。

是日、劇飲而帰。

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宋・蘇東坡「浣渓沙・游沙湖清泉寺」(「浣渓沙」の歌の節で。沙湖の清泉寺に出かけた)(「東坡志林」巻一より)。簡単そうに見えて、すごく有名な文と詞なんです。わからなくてもイワシの頭のように拝んでいれば、そのうち感動しはじめるかも。

今日昼間、焼き芋(紅あずま、です。さつきみどりではありません)を買って、冷えたあと皮ごとむしゃむしゃして喉に詰まりそうなので水飲んで押し込んで食べきったら、腹が膨れて苦しくなってきました。しばらく動けなくなっていたら、眠くなってきて居眠りして、数十分で起きたあとは苦しいというほどでもなくなりました。ああよかった。劇飲はもうできないのに、劇食だけはしてしまう、いや、自分の意志に関係なく、させられてしまうというべきかも知れません。

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