不覚失笑(覚えず失笑す)(「分甘余話」)
世の中いろいろ可笑しいことばかりですね。103万は壁では無かった、わははは、とか。しかし事実としたら何かが面妖しいような・・・、まぼろしではなく103万円を超えた時の手続きがめんどくさすぎたりするのでは?

「わはは、こいつ精霊でかっぱ」
「おれたちみたいに妖怪に進化してから世の中に出て来いでワロ」
「あの、ぼくたちの方が笑われているかも・・・」
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漢代に官立の音楽隊であった「楽府」で、民間の歌謡が採用されて演奏されたことから、古典的な民謡を「楽府」(がふ)と言いますが、その中に、
江陵去揚州、三千三百里、已行一千三、所有二千在。
江陵の揚州を去ること、三千三百里、已に行く一千三、有するところ二千在り。
江陵は、ほい、揚州から、三千三百里離れてござる。
ここまでもう一千三百里、残りはたったの二千里じゃ。
というのがあります。なお、漢代の一里は400メートルぐらいです。
この歌、
愈俚愈妙、然読之未有不失笑者。
いよいよ俚にしていよいよ妙、然るにこれを読むにいまだ失笑せざる者有らざらん。
ほんとに田舎っぽくてほんとに味わいがある、しかしこれを読んで、ニヤリとしない人はいないだろう。
もう二十年ほど前に、四川地方に赴任したことがあるが、任が解けて北京に帰ることになった帰り道の一泊目、新都の宿場に泊まったとき、
聞諸僕偶語。
諸僕の偶語するを聞けり。
下僕どもが話しているのを聞いていた。
甲が言う、
今日帰家、所余道路無幾矣。当酌酒相賀也。
今日帰家するに、余すところの道路幾ばくも無し。まさに酒を酌みて相賀せん。
「今日からは家に帰れることになった。残りの旅程はどれほども無いであろう。さあ、酒を飲んでお祝いしようではないか」
乙が言った、
所余幾何。
余すところ幾何ぞや。
「残りの旅程はどれぐらいだ?」
甲が答えた、
已行四十里、所余不過五千九百六十里耳。
已に行くこと四十里、余すところは五千九百六十里に過ぎざるのみ。
「今日だけで四十里来たのだから、残りの旅程は五千九百六十里・・・しかないぞ」
清代の一里≒580メートル、で計算してみてください。
余不覚失笑。而復悵然有越郷之悲。
余、覚えず失笑す。しかるにまた、悵然として越郷の悲しみ有り。
わしは思わず吹き出してしまった。しかし、家からずいぶん離れているという悲しみがじわりとしたものである。
此語雖謔、乃得楽府之意。
この語、謔なりといえども、すなわち楽府の意を得たり。
あいつらの会話は、おふざけであろうが、そのまま古い楽府の思いを表現していたのである。
己丑年(康煕四十八年(1709))十一月十八日、雪を見ながら古い楽府の本を読んでいた。官を退いてからもう何年になるだろうか。もうあんな風に遠く旅することもあるまい。
ふと思いついてメモをする。
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清・王士禎「分甘余話」巻三より。今年も寒くなってきましたが、あの年も寒かったなあ。むかしは十一月でも雪が降ったんだ―――と思ってはいけません。当時は旧暦だったんです。
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