11月22日 小雪。今年も暖房なしで行けるか

速進則闔(速やかに進めば則ち闔(と)ざさる)(「春酒堂詩文集」)

先生「童子がもう少しできるやつだったらなあ」童子「先生がもう少し大人でしたらなあ」

ゆっくり行こう。よんなーよんなーさあ。

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庚寅年(1650。清の順治七年のことですが、清の元号は使わない)の冬のことじゃが、わしは日暮れの道を蛟川の町に急いでいた。

命小奚以木簡束書従。

時西日沈山、晩煙縈樹。

望城二里許、因問渡者尚可得南門開否。

日没と同時に門は閉ざされ、明日の朝まで出入りができなくなる。

すると、渡し守は、(わしの方ではなく)童子の方をじっと見た。

童子「うっしっし」

渡し守は視線をわしの方に戻して、

応曰、徐行之、尚開也。速進、則闔。

「はあ?」

予慍為戯、趨行。

「はやく、急ぐのじゃ!」

及半、小奚倒、束断書崩。啼未即起。

「何をしている!」
「うわーん」

わしは戻って、

理書収束。而前門已牡下矣。

錠前の差し込みの部分を「門牡」といいます。

閉まってしまいました。

「うわーん、先生ごめんなちゃい」

「・・・いや、いい」

予爽然思渡者言近道。

急いで行けば、もう間に合いますまい・・・か。なるほどな。しかたない、今晩は、さっき通りがかりに見えたお堂にでも泊まらせてもらおう。少し寒いかも知れんが仕方あるまい」

「お、あんまり怒ってない」

怒るどころか、わしは上機嫌だった。真理をまた一つ、知ったからである。

天下之以噪急自敗、窮暮而無所帰宿者、其猶是也夫。其猶是也夫。

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清・周容「春酒堂詩文集」より「小港渡者」(「小さな渡し場の渡し守」)。著者の周容は明の萬暦四十四年(1616)、浙江・寧波のひと、北京が陥落して崇禎帝が自殺(崇禎十七年・順治元年(1644))した後は反清運動に従事するが、やがて剃髪して僧侶と称し、絵を売って暮らした。「明の遺臣」といわれる人たちの一人です。氷河期世代のようなイメージでしょうか。
康煕十八年(1679)に卒。チャイナ南部は三藩の乱でまだ動揺しているころですが、もうそのころには新たな体制の中で、諦観しながら死んでいったようです。

上記の、童子一人を連れて急いでいるのは、おそらく反清ゲリラ中、という設定でしょう。童子が束ねている書類も、同志への連絡文や名簿など恐らく緊張した内容のもので、「日が暮れて帰るところも無く困窮している者」というのが、最後のあがきを続けていた「明の遺民たち」のことであること、彼の時代の人には自明のことであったでしょう。

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