苦哉毒哉(苦なるかな、毒なるかな)(「袁中郎尺牘」)
食べ過ぎると①苦しく、かつ②健康に対して毒となるはずなのですが、①が無くなってきたのです。
昨日、晩飯を一回食ったあとジムに寄って家に帰ってまた晩飯を食ってしまう。だいぶん経ってから二回食ったことを思い出した。老耄の症状と思われ、ちょっとまずい。

おれたちカッパ族は、賽銭にするカネはない、キウリはある、シリコダマは渡さない、の法則でカッパ。
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明の萬暦年間(おそらく萬暦二十年(1592)ごろと推定される)です。友人の丘長孺に手紙を書きます。
聞長孺病甚。念念。若長孺死、東南風雅尽矣。能無念耶。
長孺、病甚だしと聞けり。念(おも)う、念う。もし長孺死せば、東南の風雅尽きせん。能く念うこと無からんや。
長孺よ、病状がひどいと聞いた。祈っている。祈っている。もし長孺よ、おまえが死ねば、チャイナ東南の江南地方から、風雅というものが消えてなくなってしまうのだぞ。どうして祈らないでいられるだろうか。
ところで、
弟作令備、極醜態、不可名状。
弟、令に備を作して、醜態を極め、名状すべからず。
弟(のような者であるわたし)は、県令の職に就いて、今やひどい醜態を極めており、コトバにできないほどである。
筆者は、当時、二十代後半で浙江・呉県の県令となっていた。老い耄れる年ではございませんが、コトバにできない醜態だったらしい。
どんな状態かというに、
大約遇上官則奴、侯過客則妓、治銭穀則倉老人、諭百姓則保山婆。
大約、上官に遇いては奴、過客を侯いては妓、銭穀を治めては倉の老人、百姓を諭すれば保山の婆なり。
だいたいのところ、上司と出会った時には三下奴のように振る舞い、中央から出張の役人を迎えたときは妓女のようにおほほと振る舞い、納税された銭や穀物を管理する時には倉庫番の老人のように(細かい注意をして)行動し、人民どもを教え諭すときは、保山のばばあのように世話を焼く。
かくして、
一日之間、百暖百寒、乍陰乍陽、人間悪趣、令一身嘗尽矣。苦哉毒哉。
一日の間に百暖百寒、たちまち陰(くも)りたちまち陽(ひ)あたり、人間(じんかん)の悪趣、令の一身につねに尽くす。苦なるかな、毒なるかな。
一日の間に百回あたたかになり百回寒々とし、突然曇ったかと思ったら突然日が照り始める。人間世界のイヤなことは、県知事の一身にいつもすべて集まってくるのだ。苦しいなあ、毒になるなあ。
なのに県知事に再選しようとする人もいるのだから不思議なですね。いい人になっているといいのですが。
ところで、
家弟秋間欲過呉。雖過呉、亦只好令坐衙齋。
家弟秋間に呉を過(よ)ぎらんと欲す。呉を過ぎるといえども、またただ好く、衙齋に坐せしめん。
うちの弟(袁小修のこと)が秋になるとこの呉の地にやってくるということだ。たとえ呉にやってきたとしても、官邸で座禅させておこうと思う。
看詩読書、不得如往時。近日遊興発不。茂園主人雖無銭可贈客子、然猶有酒可酔、茶可飲。
詩を看、書を読むも、往時の如きを得ず。近日遊興発せるやいなや。茂園主人は客子に贈るべきの銭無しといえども、然るになお酒の酔うべく、茶の飲むべき有らん。
詩を見たり書物を読んだりするのも、以前みたいにどんどん読むのは無理になってきた。最近はおもしろい宴会など何かあったか。わたくし茂園主人は貧乏で客人に贈るようなカネは無い。だが、酔うための酒、飲むためのお茶はある。
ぜひ遊びに来てください。旅費は送らないけど。
おまえさんが来てくれれば、
太湖一尺水可游。洞庭一塊石可登。不大落寞也。如何。
太湖の一尺の水は游(およ)ぐべし。洞庭の一塊の石は登るべし。大いに落寞はせざるなり。如何ぞ。
蘇州の太湖(のような名勝地)の水が一尺でもあれば、(想像力で)泳ぐことができるだろう。湖南の洞庭山(のような名山)の岩が一塊でもあれば、登ることができるだろう。そんなに落ちぶれて寂しくはならないと思う。どうだろうか。
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明・袁宏道「袁中郎尺牘」より「与丘長孺書」(丘長孺に与うる書)。袁宏道の名文の一つとされています。これ読むと、最初はえらく心配しているようなこと言ってますが、話題はどんどん変わっていくし、遊びに来いと言い出すし、どう考えても丘長孺の病気は大したことなさそうですね。実際、二人ともあと十年ぐらいは生きています。
なお、丘長孺はこちら(漢文日録22.11.6)にも登場しています。こちらは弟の袁小修の文章です。もう十二年も前に、先人が遺してくれたものなのだなあ。この年も三位のチームが日本一になったのか。
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