失於勧救(勧救に失す)(「松窗夢語」)
今日は長い会議に出てきました。もしかしたら真実は違っているのかも知れませんが、みんなの意見に従うといいことがあるかもの精神でがんばりました。一部を除き見ざる聞かざる言わざるじゃ。しかしこんなことでは親密圏などできませんよ。

もう何十年もつけているので、外すことはできない。
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明の時代、十六世紀の後半のことでございますが、
京師群瞽為茶会、会輒数十人。内一楊一馬言論相触、恃力闘殴、皆致重傷而死。
京師にて群瞽茶会を為し、輒ち数十人を会す。内に一楊一馬、言論相触し、力を恃みて闘殴して、みな重傷を致して死す。
都・北京で目の見えない人たちが集まって、茶会を開いた。数十人が集まったのだが、その中の楊という人と馬という人が何やら言い合いになり、そのうち暴力に訴えて殴り合い、二人とも重傷を負った後、死んでしまうという事件があった。
この時、わたしは刑事を掌る西曹におり、その裁判を主宰することとなった。
二人とも死んでいるのですが、それぞれの共犯の容疑者がいたというのである。
楊坐其子、馬坐其姪。以扶其父叔、助力相殴。
楊はその子を坐し、馬はその姪を坐す。その父叔を扶けて、助力して相殴るを以てなり。
楊の子どもと、馬の甥が、それぞれ共犯者とされて検挙された。一方は親父、もう一方は叔父の介添え人であったが、二人を助けて亡くなった相手を殴りつけ合った、というのである。
「姪」は兄弟の男の子ども、つまり「甥」のことです。
二人を引き出させてみると、
皆垂髫童子。
みな垂髫の童子なり。
「垂髫」(すいちょう)とは、髪を結わず項に垂らしていることで、そのような髪型をした「童子」とは、だいたい七~八歳のやつを言います。
二人ともまだ七~八歳の子どもであった。
チャイナの裁判は当時から(今は秘密もあるかも知れませんが)公開が原則ですから、観衆がいます。観衆たちが納得するような裁判をしないと「輿論」に攻撃され、裁判官の評判は落ちて考課(人事評価)にも響きます。
今回、観衆たちの「輿論」は明らかに子どもたちに同情している。
わたしの判決は次のとおり―――
両人結扭在地、甚強有力。傍観不能挙手投足、矧二稚子。
両人結扭(けつじゅう)して地に在り、甚だ強く力有り。傍観するも挙手投足能わず、いわんや二稚子をや。
死んだ二人は地面で取っ組み合って、すごい力であった。このことは、傍にいた者たちには手や足を出して闘争を止めさせることができなかったということから明らかである。そんな状況下で、幼い子供が横から相手に向かって暴力を奮うことができたかどうか、疑わしい。
楊名殴馬馴罪当坐絞、馬馴殴楊名罪当坐絞。今有罪者皆死、而移坐子姪。是知生可償死、不知死可互償也。
楊名、馬馴を殴るの罪は絞に坐するに当たり、馬馴の楊名を殴るの罪は絞るに坐するに当たる。今、有罪者みな死し、子姪に移坐す。これ生の死を償うべきを知るも、死の互いに償うべきを知らざるなり。
楊名が馬馴を殴って死なせたのは、絞首刑に当たる。また、馬馴が楊名を殴って死なせたのも絞首刑に当たる。ただし、この二人の有罪者はどちらも死んでしまっているものである。
次に、それぞれに助力したと疑われる子どもと甥の共犯の罪を論じる。しかしながら、これは生きている者が死者に対して罪を償うべきであることを論じているだけで、死者同士が既に互いに罪を償っていることを論じていないといえるであろう。
すでに殺人の罪は、共犯関係の有無に関わらず、相殺されて消滅している。
よって、
各坐失於勧救、杖決。
おのおの勧救に失するに坐し、杖と決す。
二人は、(殺人の共犯としての罪は無く、)目の不自由なそれぞれの父と叔父を助けられなかったことを罪とし、杖で殴る刑に処す。
杖刑は、執行者が強く殴るか弱く殴るかで、死刑相当になってしまうこともあれば、ほとんど何の痛みも無いこともありえる極めて裁量的な刑罰です。そして、今回は市民たちの同情が二人の子どもに集まっているので、執行者が強く殴ることはありえない。
裁きを聴いて、観衆たちは大喜びし、長老たちは腕組みしたまま頷いてくれた。輿論に応えることができました。
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明・張瀚「松窗夢語」巻一「宦游記」より。チャイナのむかしの裁判は原則公開で、どうやって「輿論」を認識するか、そしてそれに沿ってうまく判決を出すか、で裁判官の能力が試されます。輿論迎合のポピュリズム社会です。もちろん、政治事件は上の方の御意向に沿わねばなりませんが、普通の刑事事件などで輿論に反した判決を出すと、裁判官は批判されるだけでなく、民衆に引きずり出されてリンチを食らった実例もあるほどです。
筆者の張瀚は、字・子文、元洲先生と号す、浙江・仁和のひと、嘉靖十四年(1535)の進士、萬暦五年(1573)、宰相・張居正の「奪情」(父母が死んで、本人は喪に服したいのに、その感情を奪って、そのまま仕事を続けるように命じるという皇帝の措置のことです。この場合は、実際には張居正が母の死に関わらず職務を離れたくないので、皇帝にこのような措置を取らせたと言われる)を批判して失職、家に居ること十八年にして萬暦二十三年(1591)死去、卒年八十三なり、という。現役時代には、三回司法官に就き、過去の判例に詳しい名裁判官として評判だった(←本人の言では)そうです。
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