痛飲読離騒(痛飲して離騒を読む)(「梁渓漫志」)
痛飲したら寝るしかありません。飲んでなくても寝ます。明日5時間も会議があるそうなんです。どうしよう。

忠君愛国でポン。
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豈余身之憚殃兮、恐皇輿之敗績。
長太息以掩涕兮、哀民生之多艱。
亦余心之所善兮、雖九死其猶未悔。
あに余の身の殃を憚らん、皇輿の敗績を恐る。
長く太息して以て涕を掩い、民生の多艱なるを哀しむ。
また余の心の善しとするところ、九死すといえどもそれなお未だ悔いざるなり。
わしの身命にどんなわざわいがあろうとも憚らぬ、それよりすめらぎの車の敗れ覆るを恐るるなり。
長々とため息をつきて涙を拭い、これから人民たちの生活に多くの艱難が訪れるであろうことを哀しむ。
それでも、わしの心がこうすべきだとする方向へ向かおう、そのために九のたび死んでも、それでもまだ後悔することはないのだ。
云云。まだまだ続きます。
戦国・楚の屈原の作とされる「離騒」は、忠君愛国の詩として、歴代多くのひとびとが愛好してきました。
それで、
昔人有云、痛飲読離騒、可称名士。
昔人云う有り、「痛飲して離騒を読む、名士と称すべし」と。
昔の人はこう言った、「酔っぱらって(昂った状態で)「離騒」を読むようなら、その人は名の通ったおとこだというべきだろう」と。
世往往道其語、予常笑之。
世、往往にしてその語を道(い)うも、予は常にこれを笑えり。
世間のひとはよくそのコトバを口にするが、わしはいつもそれを「ふふん」と笑ってきた。
だって、
方痛飲時、天地一酔、万物同帰。乃復攅眉于幽憂悲憤之作、而顧称名士耶。
方(まさ)に痛飲するの時は、天地も一に酔い、万物同じに帰す。すなわちまた幽憂悲憤の作に攅眉して、顧みて名士を称さんか。
「攅眉」は眉を集める、すなわち眉をしかめる、の意です。
酔っぱらった時、というのは、天地と一つになって酔い、あらゆる物と同化したような気分のはず。そんな時に、憂愁の思いで、悲しく憤る歌を眉をしかめて吟じるような人を、よく考えたら「名の通ったおとこ」などと言えようか。
晋の張翰(鱸魚の膾(さしみ)のために官を擲って田舎に帰ったので有名)が言った、
使我有見後名、不如即時一杯酒。
我をして後名を見る有らしむるも、如かず、即時の一杯酒に。
おれに死後の名声を約束してもらうよりも、今この時の一杯の酒をおれは求める。
これこそ、
真達者之言也。
真に達者の言なり。
まことによくわかった人の言葉といえるだろう。
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宋・費兗「梁渓漫志」巻五より。政治的ロマンチシズムにビリビリっと電気みたいなので感電して、みんなで同じ歌を歌えるならそれはそれでもいいか。その時はみなさんも一緒ですよ。あるいは人民としてその多難を哀れまれることになるのであろうか。
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