久益馴擾(久しくして益ます馴擾す)(「分甘余話」)
人間は裏切りますが、ドウブツは如何であろうか。

おれたちヘビは恩義に応えるでにょろん
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今は清の康煕年間ですが、むかしの高僧に、
水鳥樹林皆為説法。
水、鳥、樹林みな説法を為す。
水も鳥も木々も、すべて真理を説いている。
というコトバがあります。これは本当であろうか。
少し前、北京の新城地区に真武廟という道教の祠があって、
老道士趙雲山戒行清苦。
老道士・趙雲山、戒行清苦なり。
老いた道士・趙雲山というひとがここに棲み、戒律を守り、清らかで苦しい修行をしていた。
この人が、
毎誦経、輒有一蛇跧伏其旁。
誦経するごとに、すなわち一蛇のその旁らに跧伏する有り。
(道教の)お経を唱えると、いつも一匹のヘビがその傍に来て、ぴたりと頭をつけて(聞いて)いた。
久益馴擾。雲山没、蛇亦去不見。
久しくして益々馴擾(じゅんじょう)す。雲山没して、蛇また去りて見えず。
時間が経つにつれてどんどん馴れて親しくしていた。雲山師が亡くなると、ヘビもどこかに行ってしまって、現れなくなった。
「擾」(じょう)は普通は「乱す」という意味ですが、「揉」(じゅう)と通じて「馴れる、仲良くする」という意味にもなります。
もっと以前には、北京の某寺には、お経を唱えるとクモが巣を張り始めるので有名な蜘蛛塔というのがあった。また、
安陸之念仏鳥、靖州之聴経鵞、皆昭灼在人耳目者。
安陸の念仏鳥、靖州の聴経鵞、みな昭灼として人の耳目に在るものなり。
湖北の安陸には念仏を唱える鳥(オウム?)がいたし、湖南の靖州にはお経を聴くガチョウがいた。これらはすべて、はっきりと人々の耳や目に焼き付いているものだ。
以是推之、露柱瓦礫皆可知也。
是を以てこれを推すに、露柱、瓦礫もみな知るべきなり。
これらの事実から推定するに、突っ立っている柱やガレキのようなものでも、すべて知恵を持っているといえるであろう。
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清・王士禎「分甘余話」巻二より。それぞれの事例の地域がだいぶん離れているので、著者が自分で実際に見たものではない、と思われますが、しかし人びとの耳や目にはっきり焼き付いているのですから、本当のことばかりなのでしょう。柱やガレキまではどうかと思うのですが、柱やガレキもお経を唱えたら黙って聴いているでしょうから、推定できるかも。
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