不得其平(その平を得ず)(「送孟東野序」)
平日でも四時に帰るとは怪しからん、おれは帰れないのに、ぶうぶう・・・と「不平を鳴らす」の典拠です。四十数年前にはじめて読んで以来、何度もこの文章を口にしつつ、生きてきました。もちろん最初の一二行だけですが。覚えられないので。

よく鳴るやつらである。
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大凡物不得其平、則鳴。
おおよそ、物のその平を得ざればすなわち鳴る。
だいたい、物体が平静でいられない時は、すなわち音を出す。
ぶうぶう。
この一行だけはずっと覚えていました。ここからは後はこんな感じだったろうという感触だけで、覚えてなかった。
草木之無声、風撓之鳴。水之無声、風蕩之鳴。
草木の声無き、風これを撓むれば鳴る。水の声無き、風これを蕩(ゆる)がせば鳴る。
草や木が静まり返っていても、風がそれを撓め曲げれば、音を出す。水が静まり返っていても、風がそれを揺るがせば、音を出す。
水については、
其躍也或激之、其趍也或梗之、其沸也或炙之。
その躍るやあるいはこれを激し、その趍(はし)るやあるいはこれを梗(ふさ)ぎ、その沸くやあるいはこれを炙る。
それが躍り上がったらさらに叩きつけ、それが走りはじめたら行く手を塞ぎ、それが沸き上がってくれば火を以て熱する―――とさらに音を出す。
金石之無声或撃之鳴、人之於言也、亦然。
金石の声無きもあるいはこれを撃てば鳴り、人の言におけるや、また然り。
金属や岩石も放っておけば静まり返っているが、誰かがこれを撃ち叩けば、音を出す。人間の言葉についても、また同じである。
人間の言葉については、
有不得已而後言、其謌也有思、其哭也有懐。凡出乎口而為声者、其皆有弗平者乎。
已むを得ざる有りて後言い、その謌うや思い有り、その哭するや懐(おも)い有り。おああよそ口を出でて声を為すものは、其れみな平かならざるもの有るか。
もうどうしようもなくなってから、言葉になるのだ。歌をうたうときには思いがこめられ、声をあげて泣く時には心が込められる。やはり、たいていの口から出て声になるものには、平静でないことがあるのではないだろうか。
さて、
楽也者鬱於中而泄於外者也。撰其善鳴者、而仮之鳴。金石糸竹匏土革木八者、物之善鳴者也。
楽なるものは中に鬱として外に泄(も)らすものなり。その善く鳴る者を撰びてこれを仮りて鳴る。金・石・糸・竹・匏・土・革・木の八者は、物の善く鳴るものなり。
音楽というものは、内面にもやもやと溜まったものが外に漏れ出たものである。その際、物質として善く音を出す物を選んで、その力を使って音を出す。古代の音楽は、金属や石を叩き、糸を爪弾き、竹を吹き、匏(ひょうたん)や土(土鈴・オカリナなど)、さらに革や木を叩いて演奏した。この八つの物質が善く音を出すものであるからだ。
続いて、
維天之於時也亦然。撰其善鳴者、而仮之鳴。是故以鳥鳴春、以雷鳴夏、以虫鳴秋、以風鳴冬。四時之相推奪、其必有不得其平者乎。
これ、天の時におけるやまた然り。その善く鳴るものを撰びてこれを仮りて鳴る。この故に鳥を以て春に鳴り、雷を以て夏に鳴り、虫を以て秋に鳴り、風を以て冬に鳴る。四時の相推奪する、それ必ずその平を得ざるもの有るか。
そうだ、天の移り変わりもまた同じだ。よく音を出すものを撰んで、その力を使って音を出す。だから、鳥が春には音を出し、雷が夏には音を出し、虫が秋には音を出し、風が冬には音を出す。四つの季節が互いに追いかけ主役を奪いあうのは、必ずその時々に平静でないものがあるからであろう。
そして、
其於人也亦然。
その人におけるやまた然り。
人間についても、また同じなのだ。
そこで、おまえさん、
孟郊東野始以其詩鳴。
孟郊・東野、始めはその詩を以て鳴れり。
孟郊、字・東野は、最初はその詩で以て音を出した。
なかなかいい音を出す。もう少し平静で無くしてやれば、もっといい音を出すだろう。
今回、おまえさんが左遷されるのは、天がおまえさんをもっと善く鳴らしめようとしてのことなのである。甘んじて行くがいい。
・・・たいへん説得力がありますね。
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唐・韓退之「送孟東野序」(孟東野を送るの序)(宋・謝畳山編「文章軌範」巻七より)です。おもしろい文章です。ただし、「そこで」以下は大幅に省略しました。このへんもおもしろいのですが疲れたので。ぶうぶう。疲れると鳴って音を出してきます。みなさんもずいぶん鳴っているのでは。
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