世異則事異(世異なれば事異なる)(「韓非子」)
過まてば改むるにはばかることがないのが肝冷斎のいいところである。自説がないんです。それにしてもこんなに長いとは、昨日気づかなくてよかった・・・。

スイカ男トンプソンだ。彼なら長い話でもがまんするぞ。空っぽだからだ。
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昨日は眠かったので、「偃王」を「燕王」ではないかと推測して、あとは寝てしまいましたが、違うんです。これは「徐の偃王」のことです。「徐の偃王」説話の成立がもう少し後だと思ったので、後漢末の曹操さまの文章で触れることはないのでは、と考えて候補から外したのですが、今日つらつらかんがみるに、先秦の書にも出て来ていることがわかりました。
すなわち、以下のとおり。
古者文王処豊鎬之間、地方百里、行仁義而懐西戎、遂王天下。
いにしえ、文王は豊・鎬の間に処(お)り、地方百里なるも、仁義を行いて西戎を懐け、遂に天下に王たり。
むかし、周の文王は、紀元前12世紀のころ、(現在の長安あたりの)豊や鎬といった地域にいて、その領土は一辺百里(≒40キロメートル。当時の一里≒400メートル)ぐらいしかなかったが、仁義の政治を行ったので西方の異民族も服属し、とうとう天下に王として君臨するまでになった。
一方、
徐偃王処漢東、地方五百里、行仁義、割地而朝者三十有六国。荊文王恐其害己也、挙兵伐徐、遂滅之。
徐の偃王は漢の東に処り、地方五百里にして、仁義を行い、地を割し朝するもの三十有六国なり。荊の文王そのおのれを害せんことを恐れて、兵を挙げて徐を伐ち、遂にこれを滅ぼせり。
徐の偃王(えんおう)という人は、その支配地は漢水の東、今の湖北省にあって、一辺五百里≒200キロメートルの大領主で、仁義の政治を行い、領地の一部を献上して主と仰ぐ邑制国家(都市国家の小さいやつのことです)が三十六もあった。
楚(地名では荊)の文王(在位前689~前677)は、自国に隣接してそのような大きな勢力が出来たので、やがて自分たちの害になるのではないかと考えて、兵を挙げて徐を攻め、ついにこれを滅亡させた。
どうも歴史的事実としては確認できないようですが、あったことにしてください。
故文王行仁義而王天下、偃王行仁義而喪其国。是仁義用於古、不用於今也。
故に、文王は仁義を行いて天下に王たりて、偃王は仁義を行いてその国を喪う。これ、仁義はいにしえにおいて用いらるるも、今においては用いられざるなり。
こういうわけで、周の文王は仁義の政治を実施して天下の王となったが、徐の偃王は仁義の政治を実施したのに、自分の国を滅ぼしてしまった。つまり、「仁義の政治」は昔は使えたのだが、今では使えないのだ。
世異則事異。
世、異(こと)なれば、事も異(こと)なれり。
時代が変われば、事件への対処の仕方も変わる。
周よりずっと昔の原始時代のことですが、
当舜之時、有苗不服、禹将伐之、舜曰、不可。上徳不厚而行武、非道也。故修教三年、執干戚舞、有苗乃服。共工之戦、鉄銛鉅者及乎敵、鎧甲不堅者傷乎体。
舜の時に当たりて、有苗(ゆうびょう)服せず、禹まさにこれを伐たんとするに、舜曰く、「不可なり」と。上徳厚からずして武を行うは、道に非ざるなり。故に修教三年にして、干(たて)と戚を執りて舞うに、有苗すなわち服せり。共工の戦は、鉄の銛の鉅なるもの敵に及び、鎧甲堅からざる者は体を傷つけらる。
聖なる王・舜の時代に、有苗氏という一族が言うことを聴かなかった。宰相の禹(う)が征伐しようとしたとき、王の舜はこれを止めて言った、「ダメじゃ」と。指導的国民の道徳がまだ厚くなっていないのに武力を使用するのは道義に悖る、というのである。
そこで、三年間、国民に教化を及ぼして、盾とまさかりを持って舞う雄壮な踊りを踊ったところ、有苗族はそのすばらしさに感動して降伏してきたのだった。
しかしその後、共工氏との戦では、鉄のもりの巨大なものが実戦化され、これが当たると、当時のよろいとかぶとでは防ぎきれず、重傷者が多数出た。
つまり、有苗氏との戦では(実戦は行われず)盾とまさかりを持って踊るだけだったが、共工氏征伐には相手を傷つける本当の武器が利用されたわけである。どうせへそ踊りのような、みんな仲良くなれるようによく考えられた踊りだったのでしょう。
是干戚用於古、不用於今也。故曰事異而備変。
これ干戚は、いにしえに用いられ、今に用いられざるなり。故に曰く、事異なれば備え変ず、と。
つまり、盾とまさかり(とその踊り)は古代には使用されたが、近年では利用されなくなっている。それゆえに、事件への対処の仕方が変われば、必要な道具も変わってくる、といわれるのである。
上古競於道徳、中世逐於智謀、当今争於気力
上古は道徳に競い、中世は智謀に逐われ、当今は気力に争う、と。
古代は道徳を争ったのだ。その後の時代は知恵比べだ。今は、力の争いの時代だ。
紀元前6世紀のことですが、
斉将攻魯、魯使子貢説之。斉人曰、子言非不弁也、吾所欲者、土地也。非斯言所謂也。遂挙兵伐魯、去門十里以為界。
斉まさに魯を攻めんとするに、魯、子貢をしてこれに説かしむ。斉ひと曰く、子の言は弁ならざるに非ざるも、吾が欲するところは土地なり。この言に謂うところには非ざるなり、と。遂に兵を挙げて魯を伐ち、門を去ること十里、以て界と為せり。
斉の国が魯を攻めようと準備していた。魯は、孔子の弟子で、外交手腕に長けた子貢を使者に立てて、斉に攻撃を思いとどまらせようとした。しかし斉のひとびとは、子貢の話を聴いても「あなたのお話はよくわかる。だが、我々が得たいのは領土なのだ。あなたのお話とは関係がない」と言って、とうとう兵を挙げて、魯を征伐し、魯の城門からわずかに十里(4キロメートル)のところまで占領してしまった。
つまり、
偃王仁義而徐亡、子貢弁知而魯削。
偃王は仁義にして徐亡び、子貢弁知にして魯削らる。
偃王は仁義の政治を行った―――そして徐の国は滅亡した。子貢は相手に理解されるような説明をした―――そして魯は征伐された。
これらから敷衍して申し上げますと、
夫仁義弁知、非所以持国也。去偃王之仁、息子貢之智、循徐魯之力、使敵万乗、則斉荊之欲、不得行於二国矣。
それ、仁義・弁知は国を持する所以には非ざるなり。偃王の仁を去り、子貢の智を息(や)めて、徐・魯の力に循(したが)いて万乗にも敵せしむれば、すなわち斉・荊の欲も、二国に行うを得ざらん。
さて、仁義も能弁も国を保持することには役に立たないようですぞ。それぐらいなら、偃王の仁をどこかにやってしまい、子貢の能弁を止めてしまって、徐と魯が持てる力をそのままに使って、一万台の戦車を有する天子とも戦えるようにしていれば、斉や楚がどんな欲望を持って向かってきても、思い通りにはさせなかったのではないだろうか。
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「韓非子」五蠧篇より。今日も長かったですが、昨日の「偃王」の比喩を知っていただき、かつ、韓非の語り口を見ていただくのにちょうどよかろうと、精一杯がんばってご紹介させていただきました。いや、ほんと大したことないですよ。
ところで、「五蠧」(ごと)とは、国家を食い荒らす五種類の蠧(きくいむし)の謂いです。韓非が挙げているのは、
・学者(先王の道を称え、仁義を貴び、イデオロギーによって君主の判断を誤らせる)
・言談者(その時々に新しい概念を作って君主の耳を惑わし、外国の力まで利用しようとする)
・帯剣者(剣を帯びて武断や任侠を以て人民に影響を与える)
・近御者(君主の側近にある者)
・商工之民(華美で不要なものを製作・販売し、国家の基礎である第一次産業をおろそかにさせる)
ですが、みなさんはこのどれに当たりそうですか。それとも別のキクイムシかな?
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