不得已而用(已むを得ずして用うる)(「注孫子序」)
そうでない人や国が多いんです。

わしらは傘張りはするが、闇バイトはせぬぞ。
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現在は後漢の終りごろですが、わたくしが聞きましたところでは、
上古有弧矢之利、論語曰足兵、尚書八政曰師、易曰師貞丈人吉、詩曰王赫斯怒、爰征其旅。
上古には「弧矢の利」有り、「論語」には「兵を足らす」を曰い、「尚書・八政」には「師」を曰い、「易」には「師、貞(ただ)しければ、丈人吉なり」と曰い、「詩」には「王、赫としてすなわち怒り、爰(ここ)にその旅を征す」と曰う。
たくさん引用していますね。それぞれ大変短い引用文ですが、的確に引用しているので、古来「名文」とされています。
(1)まずは「易・繋辞下伝」にいう、超古代の聖人は、
弦木為弧、剡木為矢、弧矢之利、以威天下。蓋取諸睽。
木に弦(つる)をして弧(こ)と為し、木を剡(けず)りて矢と為し、弧矢の利は、以て天下を威す。けだしこれを「睽」に取れり。
木に弦を張って(☲)弓を作った。木を削って(☱)矢を作った。弓と矢の力によって、天下に威厳を現わした。これは「睽」の卦(上が☲、下が☱から成る)の姿を見て、考え付いたのである。
と書いてあります。ほんとかどうかは知らんけど、書いてあるんです。
(2)次に、「論語」顔淵篇の有名な「子貢問政」章(←全体はこちらをクリックすると書いてあるはずです)を読んでみましょう。
子貢問政、子曰足食足兵、民信之矣。
子貢政を問う、子曰く、「食を足らし、兵を足らして、民これを信ず」と。
子貢が「政治」の本質を問うた。先生はおっしゃった、「食糧を十分に行きわたらせ、軍備を十分に整えること。そうすれば人民は(政府を)信用してくれるだろう」と。
なるほど。孔子さまも「兵」(軍備)について重要視していたことがわかります。
(3)「尚書」(=「書経」)の「洪範」は、殷の遺賢(残された賢者)である箕子が、征服者である周の武王に、政治の要諦を説いたことを記録した(とされる)文書ですが、その中に「八政」(政治が行うべき八つの領域)が挙げられています。曰く、
食、貨、祀、司空、司徒、司寇、賓、師
いろんな解釈があるのですが、だいたいの感じは、
食糧行政、物資の製作・流通、国家祭祀、河川等土木事業、裁判、刑事警察、外交、軍事
でしょうか。いずれにしろ、「師」=軍隊が入っています。
(4)「易」の「師」の卦(上が☷、下が☵の卦)の卦辞(占ってこの卦が出たときの運勢)に、
師、貞丈人吉、無咎。
師は、貞(ただ)しければ丈人は吉、咎無し。
「師」の卦が出れば、正しく行動すること。そうすれば、指導者(将軍)によきことあり。よきことあれば、問題になること無し。
「易」でも「師」=軍隊が問題にされ、正しい運用が求められている。
(5)「詩」=「詩経」の大雅に「皇矣」という詩があります。この詩は周王朝の英雄たちの叙事詩なのですが、「帝」と呼ばれる天帝が各代の王たちに正義を行うよう求めるという構成になっていて、その文王の章に、「帝」が密人が阮の国(邑制国家といわれる都市国家の小さいやつです)を侵略した、これを討伐せよ、と命じると、
王赫斯怒、爰征其旅。
王、赫としてこれ怒り、爰(ここ)にその旅を整う。
文王は真っ赤になって激怒し、すぐに軍勢を整えた。
そして正義を行った、
まことに文王は、
万邦之方、下民之王。
万邦の方、下民の王なり。
あらゆる国々の手本であり、地上の人民たちの王者であられた。
・・・①~⑤から、一番上の文章は、
はるかな昔に弓矢の利用がはじまり、孔子は軍備を十分にすることが大切だと言い、箕子は武王に政治の八領域の一つとして「軍事」を挙げ、古典である「易」には「軍事の際は、正しく行動すれば、指導者は成功する」とあり、周王朝の祖先祭祀の歌である「大雅」には「文王は真っ赤になって怒られて、すぐに軍勢と整えた」と書いてある。
原始の時代より、
黄帝、湯、武咸用干戚以済世也。
黄帝、湯、武、みな干戚(かんせき)を用いて以て世を済(すく)えり。
黄帝(まつろわぬ神々を征伐)、殷の湯王(夏の桀王を征伐)、周の武王(殷の紂王を征伐)らはみな、「盾と斧」すなわち武力を用いて世界を救済したのだ。
司馬法曰人故殺人、殺之可也。恃武者滅、恃文者亡。夫差、偃王是也。
司馬法に曰く「人、人を故殺すれば、これを殺すも可なり。武に恃む者は滅び、文を恃む者は亡ぶ。」と。夫差、偃王これなり。
「司馬法」は戦国・斉の威王の軍師であった司馬穣苴が著した兵法書、です。今も遺っているのですが、もと百五十五篇あったうちの五篇だけが残っている、というもので、この言葉も前後がはっきりしません。「夫差」は春秋時代の呉王夫差のことですが、「偃王」というのが誰のことかわからないのですが、これは燕王噲(在位前320~311)のことかも知れません。噲は、古代の宰相の子之が謙譲の徳に優れていると聞き、彼に国を譲ると言っても断るだろうとの見込みで禅譲を持ちかけたところ、本当に王位を簒奪された人です。(「偃王」についてはすぐに過ちであったことが判明しました→令和6年11月5日を見よ)
「司馬法」には、「人を故意に殺した者は、殺してもよい。武力があるからとこれを恃んでいる者は滅ぶし、文化がすぐれているからとこれを恃んでいる者は亡命せざるを得なくなる」と書かれている。呉王夫差は武力を恃んで滅んだ例であり、偃王噲(だとすれば、ですが)は文化力を恃んで王位を追われた例である。
軍事は大切である。
聖人之用兵、戢而時動、不得已而用之。
聖人の兵を用うるは、戢(あつ)めて時に動き、已むを得ずしてこれを用う。
聖人の軍事の利用は、普段は兵器を集めて仕舞っておき、必要な時にだけ行動を起こす。他の手段が無い時にだけそれを用いるのだ。
わたくしは、いろんな兵書を読んでまいりました。
孫武所著深矣。審計重挙、明画深図、不可相誣。而但世人未之深亮訓説、況文煩富、行於世者失其旨要。故撰為略解矣。
孫武の著すところは深いかな。計を審らかにし挙を重くし、画を明らかにして図を深くし、相誣(し)うるべからず。しかるにただ世人はいまだこれを深く亮し説を訓ぜず、いわんや文の煩富にして、世に行う者はその旨要を失う。故に撰みて略解を為せり。
中でも、孫武の著した「孫子」は深いです。計略を細かく調べ、行動は慎重にし、計画を明確にして意図は深く隠して、文句の言いようがありません。ところが、現代(後漢末)のみなさんは、この本を深く理解して意味を説明していない。文章が煩雑で、今みなさんが読んでいるのは主旨や要点がわからなくなっている。そこで、「要点がわかる本」を書いてみました。
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後漢(三国)・曹操「注孫子序」。曹操さまは文章巧いと評判ですが、中でも名文と言われるのがこの「孫子に注するの序」です。短い文章で言いたいことを的確に言っていく、千八百年も前の文章とは思えません。
なお、この序文では、「略解」と言ってますが、魏武注「孫子」(魏武は曹操さまのことです。漢帝国からは「魏の武侯」、彼の息子が建てた魏帝国からは「魏の武帝」とおくりなされているので、「魏武」で止めておくとどちらの略称としてもOK)の序文だったと思われます。「孫子」の本文は次の時代まで魏武注本で伝わったのですが、現在の「魏武注」は「九家注」や「十一家注」の中に取り入れられて遺っているだけなので、今「孫子」を読んでもこの序文は付いていません。ただ、宋代に集められた百科事典的な書物である「太平御覧」の中にこの「序」が引用されていて、清代のひとが発見してくれました。よかった。
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