失一大魚(一大魚を失う)(「庸閒斎筆記」)
この人はネコだったのかも。

おれがいるからには、カネの心配すんニャ。
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清の時代のことです。上海・松江の五茸出身の葉桐山は河間通判として水運を管理していたが、当時屈指の実入りのいい職であったから、
当更代日、積資余三千金。
更代の日に当たりて、積資三千金に余る。
後任者と交代したとき、(彼のように蓄財に縁の無い人でも)それまでに何のかんので貯まったおカネが三千万円以上となっていた。
もちろん、一金=一万円というのは、意訳です。もっと多いと思いますが、三千万円以上の額を想像しろと言われても困るので、三千万円ぐらいにしておきます。
銀行の残高で持っているわけではなく、金貨や銀貨である。葉桐山は、
悉置不問。
悉く置いて問わず。
「何かに使ってくれ」とすべて官邸に置きっぱなしにして、離職した。
「それは困ります」
主者遣一吏、持至中途、以成例請、桐山曰、不受羨、即吾例也。命帰之。
主者、一吏を遣わし、持して中途に至り、成例を以て請うに、桐山曰く、「受羨せざるは、即ち吾、例なり」と。命じてこれを帰す。
「羨」(せん)は、ヒツジに口から涎を流す「エン」を下に付けた文字で、「羨む」ですが、「のこりもの、余り」の意味があります。えらい人の残り物は美味いですからね。へへへ。
会計係が、係員に追いかけさせて、「これまでの例としてお持ち帰りいただいてます」とそのおカネを途中で渡そうとしたが、桐山は「余りのおカネを受け取らなかったのは、わしが先例になってやろう」と言って持ち帰らせてしまった。
そうしないと、歓迎会名目で領内から一時金を集めることになるのを知っていたからである。
葉桐山は、その後、官を辞め、
晩居春申故里、饘粥不継。
晩に春申の故里に居るに、饘粥(せんしゅく)継がず。
「春申」は古代の楚の地名ですが、ここでは郷里の上海のことを言っていると思います。「饘」(せん)は、どろどろした「濃いおかゆ」、「粥」(しゅく)はじゃぶじゃぶした「薄いおかゆ」のことです。
晩年は郷里に隠棲していたが、そのころの暮らし向きは、おかゆも毎食は食べられない、というぐらいであった。
一日梅雨中、童子張網失一大魚、桐山為呀歎。
一日梅雨中、童子網を張るに一大魚を失い、桐山ために呀歎(がたん)せり。
ある梅雨どきの一日、童子と網を張って魚を捕ろうとしたが、網を引く時に失敗して、大きな魚を一匹、逃してしまった。
「なにやってるんだ!」「先生のせいでちゅよ」
「うーん、残念」桐山はこのことで「ああ」と大きく声をあげて嘆いた。
其妻聞之、曰三千金却之、一魚能値幾何。
その妻これを聞き、曰く「三千金これを却す、一魚よく幾何に値いせん」と。
奥さんが(童子がチクったのだ)それを聞いて言った、
「おまえさん、三千万円だって返してしまったんじゃないか、一匹の魚がいったいいくらだと思っているんだね」
桐山亦撫掌大笑。
桐山、また撫掌して大笑す。
桐山もまた、掌をこすりあわせて、大笑いした。
という。
好名之人、能譲千乗之国、苟非其人、箪食豆羹見於色。此真孟子通達世故語也。
「好名の人はよく千乗の国を譲るも、いやしくもその人に非ざれば、箪食(たんし)豆羹(とうこう)も色に見(あら)わる」。これ、真に孟子の世故に通達するの語なり。
「孟子」尽心章句下に
名声を欲しがる人なら、(名声を得られるなら)50万石の国さえ人に譲ってしまえるだろう。しかし、本当に無欲な人でなければ、瓢箪一本に入った弁当、豆のスープ一杯でも損した得したが顔色に表れるものじゃ。※
とあるが、これは、本当に、孟子というひとが世間のことをよく知っていたからこその言葉である。
天下を支配する周王が「万乗の君」ということ、と、徳川将軍の領地が600万石余、ということから、千乗(戦車千台の軍備を持つ国)を約50万石、と計算してみました。もちろん意訳です。
雖然、居今之世、桐山可不謂賢乎。
然りといえども、今の世に居りては、桐山は賢なりと謂わざるべけんや。
(孟子の言うとおりだとすると、桐山は名声を欲しがりながら魚一匹が顔色に出てしまった人ということになるが、)そうだとしても、今のような時代においては、桐山は賢者だと言わないわけにはいかないだろう。
わたしもこれなんです。今日は久しぶりで〇野家の牛丼を食ったが、何セットにするかで悩んでしまうとは。
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清・陳其元「庸閒齋筆記」巻二より。結局は一番安価なおしんこセットにしてしまいました。セットにしない選択もあったが、セットはつけたのだからえらいものだ。
なお、※印の孟子の文は、朱子の解釈(「孟子章句」)がこうなっているので、この人もこのように解していますが、太字の
しかし、本当に無欲な人でなければ、
の部分を
このような本当に無欲な人なければ、
と解する有力説もあります。この場合だと、10万石を譲る程度の人だと一杯のごはんでも顔色に出る、50万石だと出ない、と言うことになります。本当にこういう解釈論はおもしろいですね。一生やってられる。
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