10月26日
〇生目(いくめ)古墳群 ・・・ 4世紀終わり~5世紀初めにかけての、九州で最初の大和三輪の箸墓型の巨大古墳が2基あります(1号墳・3号墳)。これを作ることを大和朝廷に認められた首長政権があったということですが、そうではなく、大和朝廷がこれを真似したのだ、1号墳は実は3世紀の「ひみこの墓」なのだ、という伝承もあります。これに加えて、5世紀半ば過ぎの22号墳の3古墳が100メートルを越えており、陵墓比定地の男狭穂(200超)、女狭穂(170)の2古墳(5世紀後半と推定)のある西都原古墳より少し古い時期に九州最大級古墳を誇る大古墳群であった。

まず宮崎市の展示施設「游古館」で勉強する。古墳以外のことも充実。山井覚憲や八条院領のことなど。しかし古墳はやはり自分の足で歩いてみなければ。

国指定史跡生目古墳群の全体像です。33号墳まではあるみたいですが、とりあえず赤の矢印は左から1号墳(4世紀終わりころ)、3号墳(5世紀前半)、5号墳、14号墳、22号墳(5世紀後半)です。かっこいい。青丸はお堂とか羅漢像のある区域。かっこいい。

1号墳です。入れないんだろうな、と思うかも知れませんが、そこは冒険的歴史民俗研究者として行けるところまで行かねば・・・。

ハニイが紹介してくれてるのが最大の3号墳。1号墳よりなだらかです。たしかにでかい。そして、箸墓と同様、前方部が優美に長いです。

葺石が再現された5号墳。これも美しい前方後円墳です。なお、マスコットのハニイはこの古墳で発見された異形埴輪がモデルだそうです。

おそらく首長墓としては最後と思われる5世紀後半の14号墓。かなり小さくて、低いです。周溝も無かったそうです。

14号墓はら見た22号墓。かなりでかい。なお、この古墳の特徴として、首長墓周辺に地下式横穴墳墓がたくさん作られています。地下式横穴墳墓は、「霧島山の見える」宮崎県南半に特徴的な墳墓で「隼人族の墳墓」と考えられています。かっこいい。

上記図面の青丸のところに、お堂とこの羅漢石像のある空間があります。夜はやばいと思いますよ。
夜は公園の入り口(丘の麓部)を閉鎖するようですが、まかり間違っても絶対夜はここやばい。
10月27日
〇南郷城 ・・・ 日南市南郷にある中世城址。伊東氏が目井津、大堂津、油津などを瞰制するために設けたということですが、あまり来歴はわからないようです。

南郷城から日向灘を見下ろす。目の前が大堂の津です。中央右上の小山が虚空蔵島。その右側が目井の津。

覚えてみよう。
〇志布志城(内城)・・・九州十大山城の一、志布志内城に登ってまいりました。日南からだと意外と近いが、途中に串木や都井岬や行くべき場所が多かったので、十数年越しの野望が実ったことになります。
山城きつかった。南北朝期に開かれ、新納氏が島津氏の代官として大隅、日向の抑えとなったという。島津家六代・氏公さまが在城したこともあったそうです。

左下の曲輪が「矢倉場」。そこから本丸曲輪、中の首、奥の首と続きます。この空堀と崖切で曲輪を区切っていくのが「南九州型山城」で15~16世紀の島津氏に特徴的な築城法だそうです。国指定史跡である志布志城は、いちおう整備されているので、空堀から各曲輪に登る急な道があるので、冒険的研究者としては登らざるを得ません。これがきつかった。

矢倉場です。築城初期(南北朝期)からの曲輪で、杭のあるあたりに軍事的建築物があったらしい。城主の新納氏の墓あり。

本丸上の段。奥の方の土塁の上に三宝荒神さまが祀られています。島津系の城郭には、城主館の北東側に祀られるということです。

本丸曲輪と中の首の間の空堀と両側の切崖。こんなのを登らなければならないのです。研究のために。

中の首の上の平地。中の首は四つあるのですが、こんなに整備されているのはここぐらい。

奥の首に登ろうとして、ここで断念。すごい草です。

光線とカメラの能力のせいで見づらいのですが、一番深い「大空堀」。ここを通らせて上からやっつけるんだと思います。

小雨が止んで青空も見えておりました。
〇宝満寺 ・・・ 志布志城と川を挟んだところにあります。平安時代の勅願寺ということですが、廃仏毀釈で破壊され、明治に復興されたようです。

廃仏毀釈はわたしらのような者がやったんだろうなあ、と反省しています。もうやらないようにしないとなあ・・・。

こんな岩室があってすばらしいんですが、落石の懼れのため立ち入り禁止で残念です。種田山頭火が来てます。
10月28日
〇酒谷城 ・・・ 都城・飫肥の間、坂谷川のほとりにある山城です。島津・伊東の抗争の最前線で、最初は島津が作ったようですが、15世紀前半に伊東が攻め、その後島津に属し、秀吉の九州仕置きで飫肥・伊東領となり、元和の一国一城令で廃城。
志布志城と同じタイプの山城で、空堀でいくつかの曲輪を仕切っていく形です。西側から東側に登っていく形をとっています。本土の山城の縄張りは一番高い曲輪が本丸になることが多いのですが、この城では本丸とされる東端の曲輪8は、13ある曲輪のうち8番目の高さとのこと。たいへん「粗放なつくり」なんだそうです。

こんな縄張りになっています。ここは曲輪ごとに登る道がないので、切崖を登らなくてよくて助かった。

ここから上がっていきます。この石段きつかった。

石段を登り切ると神社があります。ここが曲輪8。本丸跡と推定されます。ここから空堀部分を通って曲輪1の横から出て、もとのところに戻りました。案外時間食った。
この間に雨が強くなってきたので、↓は今日も中止かと思ったが、速報見たらやっていたので、日南に戻ります。
→ 観タマ記 令和6年10月28日 参照のこと
宮崎方面へ戻ります。
〇鵜戸神社 ・・・ 今日は吾平山の尾根を経て、波切神社まで行ってみました。久しぶりにヤバイ感のある聖地に到達。種子島や沖縄の海岸洞窟と同じ雰囲気です。愛洲一刀斎が修行に訪れているに違いありません。

鵜戸神宮本殿の洞窟です。これだけでも平地人には衝撃であろう。

吾平山です。山頂は吾平山陵(ウガヤフキアヘズのミコト)として宮内庁管理。南島の「ウタキ」の源流ともいわれる山ですが、山陵方面は落石等のため通行禁止。山をぐるりと回って、波切神社へ行ってみます。

山道を通り抜けて海側への崖を降りると、見えてきます。ありがたや。

海側はこんな状態。波の音もすごく、しばらくいる間に人格を失ってきたので、正気のあるうちに戻らなければと戻ってきました。
戻ってくると、お土産屋さんのあたりに黒地域ネコがいて、睨んで来ました。
北上して、宮崎市内を一度通り抜けます。
〇江田神社・みそぎ池 ・・・ 宮崎市内北部・山崎にある延喜式式内社です。いざなぎ・いざなみを祀る古社で、律令駅家の一。都万の国府から南に向かう最初の要地だった模様。

シーガイヤの裏手あたりになるのでしょうか。
このあたりは、かつての海岸砂丘台地上だと思います。周囲より少し高い。その中の低湿地に湧いた池が御池(みそぎ池)で、いざなぎさまが黄泉から帰ってみそぎをした、最後に三貴子を得た「つくしのおど」だという伝承がある、ということです。

みそぎ池。イザナギ・イザナミ伝説はほんとは阿波の(以下、神話の常識を崩す阿波国風土記の内容に踏み込んでしまうため省略。)
ここから空港に戻りました。ラーメン食った。ジャイとベイスの若い選手と一緒飛行機で帰ってきました。
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