10月19日 どこへ行ってしまったのだろうか

龍中来(龍中より来たる)(「梁渓漫志」)

このひとも「終わるところを知らず」という。我々もがんばりましょう。

おいらが食ったわけじゃない(と思う)よ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

宋の時代のことですが、

吾州天慶観画龍、勝絶之筆聞于天下。凡四方来者道出毘陵、必迂路而視焉。

この絵は、

蓋姑蘇道士李懐仁所画。

懐仁者、酒豪不羈、嘗呼龍松江之上、狎而観之、遂画龍入神品。

過毘陵天慶観、大酔、索墨漿数斗、曳苕帚、裂巾袂濡墨、号呼奮躑、斯須龍成。

「苕」(ちょう)は「えんどう」。マメ科の植物です。

すばらしい。

観者失声辟易、懼将搏也。

すばらしい芸術が一般のひとに伝わるまでには時間がかかる。

懐仁後不知所終。而好事者毎呼画工就龍模写、工運筆之際、輒眩暈欲仆、竟不能成。観者駭異。

※「画工」は要するに画家のことなのですが、むかしの東洋のひとたちなので芸術家や技術者を尊敬することができず、「画工」(絵画職人)と呼んでいます。ちなみに李懐仁は「道士」ですから、文字を解する知識人、すなわち「文人」で、彼の描く画は「文人画」であって、彼は「技術者」ではないので、画工ではありません。

無錫の知識人・呉徳輝が近世の名画について言う中に、

予毎到画龍処、輒諦玩彌時不能休。

そう言って、五言古詩の長いのを作った。

長いので全部紹介するのムリ。

道人龍中来、酔与神物会。

写玆蜿蜒質、日月為冥晦。

以下略。

・・・・・・・・・・・・・・・・・

宋・費兗「梁渓漫志」巻七より。龍のように自由に生きて、えらいさんもぼかんとやっつけてみたいものですね。だが、一時の感情に捕らわれてはなりません。上の古詩は次のように結ばれています。

・・・ある晩、誰か寝ぼけてしまって、龍の画の逆鱗のところに触れてしまわないか心配だ。(そんなことをすればその人だけでなく、地域全体に災害が降り注ぐだろうから)
だからみなさんも、

願言慎所托、未用期一快。

だが、わたしのような自由人となれば、いつでも龍のうろこを引っ張れます。そろそろやったるか。

ホームへ
日録目次へ

コメントを残す