龍中来(龍中より来たる)(「梁渓漫志」)
このひとも「終わるところを知らず」という。我々もがんばりましょう。

おいらが食ったわけじゃない(と思う)よ。
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宋の時代のことですが、
吾州天慶観画龍、勝絶之筆聞于天下。凡四方来者道出毘陵、必迂路而視焉。
吾州の天慶観の画龍、勝絶の筆、天下に聞こゆ。およそ四方より来たる者、道の毘陵に出づるは、必ず迂路してこれを見る。
我が江蘇・無錫の天慶観(「観」は道教のお寺です)の龍の画は、誰も敵わない筆の運びのすばらしさが、天下に鳴り響いている。天下のあちこちからやってきた者が、毘陵(無錫付近の当時の呼び方)の町から出ていくときには、必ず少し遠回りしてこれを見て行くのである。
この絵は、
蓋姑蘇道士李懐仁所画。
けだし姑蘇の道士・李懐仁が画くところなり。
蘇州の道教の僧侶であった李懐仁が(数十年前に)描いたものなのだ。
懐仁者、酒豪不羈、嘗呼龍松江之上、狎而観之、遂画龍入神品。
懐仁なる者は酒豪にして不羈、嘗て龍を松江のほとりに呼びて、狎してこれを観、遂に画龍神品に入れり。
李懐仁という人は大変なひとで、酒豪で自分勝手、あるとき龍を上海・松江のほとりに呼びだした。なれなれしく近づいて観察し、それ以降、その龍の画は神業と言われるようになったのである。
過毘陵天慶観、大酔、索墨漿数斗、曳苕帚、裂巾袂濡墨、号呼奮躑、斯須龍成。
毘陵の天慶観を過ぎて大いに酔い、墨漿数斗を索(もと)め、苕(ちょう)の帚を曳き、巾袂を裂きて墨に濡らし、号呼して奮躑し、斯須(ししゅ)にして龍成れり。
「苕」(ちょう)は「えんどう」。マメ科の植物です。
ここ毘陵の天慶観に寄ったときに、大いに酔って、墨汁を20~30リットル(当時の一斗≒9.5リットルで計算)を寄こせというので大急ぎで用意してやると、えんどうの葉で作った巨筆を引きずり、頭巾やたもとを引き裂いて墨汁に漬けてあちこちに叩きつけ、大声をあげ、飛び跳ねながら、あっという間に龍のすがたを描いたのである。
すばらしい。
観者失声辟易、懼将搏也。
観者、声を失い辟易して、まさに搏たれんかと懼る。
まわりで見ていた者たちは声を失い、困惑した。李からぶん殴られるのではないかと怖かったそうである。
すばらしい芸術が一般のひとに伝わるまでには時間がかかる。
懐仁後不知所終。而好事者毎呼画工就龍模写、工運筆之際、輒眩暈欲仆、竟不能成。観者駭異。
懐仁は後、終わるところを知られず。而して好事者はつねに画工を呼びて、龍に就きて模写せしむるに、工、運筆の際、すなわち眩暈して仆れんとし、ついに成す能わず。観者異に駭(おどろ)く。
李懐仁は評価の定まらぬうちに、どこかへ行ってしまい、どこでどう終わったのかわからない。やがて趣味人たちの間でこの画が評判になり出し、画描き(「画工」※)たちを招聘して、龍の前で模写させたのだが、画描きたちは筆を動かしているうちに原因不明のめまいを起こして倒れそうになり、いつも成功しないのであった。ひとびとはその不思議さに驚いた。
※「画工」は要するに画家のことなのですが、むかしの東洋のひとたちなので芸術家や技術者を尊敬することができず、「画工」(絵画職人)と呼んでいます。ちなみに李懐仁は「道士」ですから、文字を解する知識人、すなわち「文人」で、彼の描く画は「文人画」であって、彼は「技術者」ではないので、画工ではありません。
無錫の知識人・呉徳輝が近世の名画について言う中に、
予毎到画龍処、輒諦玩彌時不能休。
予、画龍の処に到るごとに、すなわち諦玩して時に彌(わた)りて休(や)む能わず。
わしは、この龍の画のところに行くごとに、いつもじっくり見つめいろいろ調べて、長時間になってしまうが止めることができないのである。
そう言って、五言古詩の長いのを作った。
長いので全部紹介するのムリ。
道人龍中来、酔与神物会。
道人龍中より来たり、酔いて神物と会す。
(李懐仁)道士どのは龍の仲間の中からやってきたのだろうか。酔って神秘のもの(龍)と会合したことがあるという。
写玆蜿蜒質、日月為冥晦。
玆(こ)の蜿蜒(えんえん)の質を写し、日月もために冥晦す。
この長くてうねる龍の本質を描きだしたところ、(あまりに素晴らしいので)太陽や月も暗くなってしまうほどだ。
以下略。
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宋・費兗「梁渓漫志」巻七より。龍のように自由に生きて、えらいさんもぼかんとやっつけてみたいものですね。だが、一時の感情に捕らわれてはなりません。上の古詩は次のように結ばれています。
・・・ある晩、誰か寝ぼけてしまって、龍の画の逆鱗のところに触れてしまわないか心配だ。(そんなことをすればその人だけでなく、地域全体に災害が降り注ぐだろうから)
だからみなさんも、
願言慎所托、未用期一快。
願わくは言(ここ)に托するところを慎み、いまだ一快を期するを用いざれ。
お世話になっている相手が誰かをよく考えてみよう、一時の快感を求めようとするのはまだ早い。
だが、わたしのような自由人となれば、いつでも龍のうろこを引っ張れます。そろそろやったるか。
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