齁齁作声(齁齁として声を作す)(「墨余録」)
変な人がいるもんです。ついていってはいけませんよ。

飲んでもシゴトできる三人じょうごたちは凄い。わたしならすぐ寝ます。
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南宋の末ごろ、浙江に陳箍桶(ちん・ことう)と呼ばれる人がいた。
居浦濱、以箍桶為業、跣足蓬頭、冬夏一衲、不滌、亦不穢也。鬚鬢班白、双眼湛如碧玉。
浦濱に居り、箍桶を以て業と為し、跣足蓬頭にして冬夏一衲、滌わず、また穢れず。鬚鬢班白にして、双眼湛如として碧眼なり。
海岸べりに野宿していて、人に頼まれて桶にタガを嵌めるのを職にしていた。はだしでぼさぼさの頭、冬も夏も同じ粗末な服で、洗っているのを見たことがないが、汚れているのも見たことはない。ヒゲやビンの毛は半分白く、ひとみは何か深い輝きを秘めたみどり色であった。
約150年も前の、北宋が滅亡したころのことを見て来たように話すのだが、
貌僅如五十許人。
容貌わずかに五十許りの人のごとし。
外見からは、まだ五十ぐらいにしか見えない。
常来江浙間、踪跡殊無定。性懶、而好酒善睡。
常に、江浙の間に来たり、踪跡ことに定まる無し。性懶く、しかるに好酒して善睡するなり。
いつも、浙江省あたりをあちらこちら移動しており、その行方には定まったルールや目的があるはずではなかった。性格はたいへんやる気がない。ただ、お酒は大好きで、よく眠っているのであった。
一日、酔臥浦灘、潮適大至、順流五六里、鼻中猶齁齁作声、人以是咸目為仙。
一日、浦灘に酔い臥するに、潮たまたま大いに至り、順流すること五六里、鼻中なお齁齁(こうこう)として声を作す。人、これを以てみな目して仙と為す。
ある日、海岸で酔っぱらって眠っていたら、たまたま大潮の日だったため、波に乗せられて流れに沿って五六里(3~4キロ)も流されてしまい、その間も鼻の中で「ぐー、ぐー」といびきをかき続けていた。このことがあってから、ひとびとは彼を「仙人」に分類していた。
ところで―――
このころ、名将・伯顔(バヤン)に率いられた元軍は、襄陽を破り、長江に沿って進軍していた。
このため、長江の北岸は元軍の占領下に入って治安が保たれていたが、
江以南盗賊蜂起、積屍遍野、煙火断絶者経月。而陳独安然、日仍酔臥街頭、竟不知何従得食也。
江以南は盗賊蜂起し、屍積みて野に遍く、煙火断絶して月を経たり。しかるに陳ひとり安然たり。日になお街頭に酔臥して、ついに知らず何に従(よ)りて食を得たるかを。
長江以南の非占領地は、かえって治安が崩れて群盗があちこちで蜂起しているため、被害者たちの死体が野原いっぱいに広がり、火薬と硝煙が町や人の連絡を断絶して、何か月にもなっていた。しかし、陳はひとり安心して暮らしており、毎日、町中で酔って眠り、一体なにによって飯を食っているのわからなかった。
元の至元(1264~95)の初め、
華亭陸正夫、猶遇陳於江寧、後遂不知所終。
華亭の陸正夫、なお陳に江寧に遇うといい、後ついに終わるところを知らず。
(南宋の幼い皇帝を擁して最後まで抵抗していた)華亭(上海)出身の陸正夫が、江寧(今のナンキン)あたりで陳の姿を見た、ともいうが、その後、最終的にどこで亡くなったのかわからない。
―――そんな人がホントにいたのか? おまえさんの作り話ではないか?
いやいや、
邑有陳箍桶橋、乃其遺迹。
邑に「陳箍桶橋」の有るは、すなわちその遺迹なり。
我が上海郊外の村には、ご承知のとおり「陳箍桶(ちんことう)橋」というのがある。あれが、すなわち彼がこのあたりで生きていたという証拠である。
わかりましたか。
今人呼為陳顧同橋、謂是二姓所造、真臆説也。
今人、呼びて「陳顧同橋」と為し、この二姓の造るところなりと謂うは、真に臆説なり。
現代(清末)では、その橋のことは「陳顧同(ちんこどう)橋」と呼ばれており、陳と顧の二つの姓の人たちが共同して造ったので、その名になったのだ、と言われている? それはほんとうの作り話じゃ。
ひっひっひっひ・・・。
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清・毛祥麟「墨余録」巻三より。証拠に橋の名前が遺されているというのですから、本当のことでしょう。歴史を捏造しようとする現代人(清末の)は怪しからんなあ。みなさんも何が本当のことか、しっかりリテラシーを持って読書してください。ことごとく書を信ぜば、書無きに如かず(「孟子」)じゃ。
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