何曾夢覚(何ぞかつて夢覚めし)(「東坡詩余」)
やっと秋らしくなってきました。明日はぐぐっと寒いみたいです。夜遊びする人は気をつけよう。

おお、美しいひとよ。
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北宋の蘇東坡が、徐州・彭城にやってきた。
夜宿燕子楼、夢盼盼、因作此詞。永遇楽。
夜、燕子楼に宿し、盼盼(へんへん)を夢みて、因りてこの詞を作る。「永遇楽」なり。
夜、つばめ館に泊まった。この旅館は、200年以上前、唐代の伝説的は妓女・盼盼(へんへん)と節度使・張建邦の恋の現場である。白楽天がここに泊って、そのことを詩に詠んでいるので知ったのだ。
夜、夢に中に盼盼らしい女が出てきた。そこで、この詞を作ったのである。曲調は「これからはずっと会えるから楽しいね」の節。
といって、詞を書いています。いかにも秋の夜の冷涼な雰囲気が出ているので、読んでみましょう。
明月如霜、好風如水、清景無限。
曲港跳魚、円荷瀉露、寂寞無人見。
紞如三鼓、鏗然一葉、黯黯夢雲驚断。
夜茫茫、重尋無処、覚来小園行遍。
長いですね。
明月は霜の如く、好風は水の如く、清景は無限なり。
曲港に魚跳ね、円荷に露瀉(そそ)がれ、寂寞として人の見る無し。
紞如(たんじょ)たり三鼓、鏗然(こうぜん)たり一葉、黯黯(あんあん)として夢の雲は驚断す。
夜は茫々、重ねて尋ぬるに処無く、覚め来たりて小園に行遍す。
「円荷」はまるいハスの葉、「紞如」(たんじょ)は太鼓のどんどんという音、「鏗然」(こうぜん)は金属音、「がちゃり」。「黯黯」は暗い状態、あるいはそんな気分、「夢雲驚断す」は戦国の時代、楚の襄王が夢に美しい女と会って愛し合ったところ、女は自分は巫山の女神であり、見上げてもらえば、朝に雲、夕べに雨となっていることであろう、と述べて、そこで夢が断たれた、という故事を踏まえております・・・ということぐらいを踏まえていただくと、だいたい意味はわかります。
明るい月の光は霜のように白く、さわやかな風が水のように涼しく吹いてくる。清らかな景色ははてもなく広がっている。
入江の船着き場では魚が跳ね、まるいハスの葉には露がたまっているが、さびしいことに誰も人間は見ていない。
たん、たん、と深夜を知らせる太鼓が鳴り、かさり、こそり、と金属のような堅い音を立てて一枚の葉が落ちる。暗い夜中に、わたしはあの人との逢瀬の夢から突然醒めてしまった。
夜はなおはるかに長いが、もう一度あの人との夢の続きを見るすべもなく、起き上がって小さな裏庭を歩き回った。
長いんですが、これが一番です。この詞は「双調」なので、ほとんど同じ旋律をもう一回繰り返す、つまり二番があります。字数や韻を考慮して、二番を巧く作るのが、腕の見せ所。
天涯倦客、山中帰路、望断故園心眼。
燕子楼空、佳人何在、空鎖楼中燕。
古今如夢、何曾夢覚、但有旧歓新怨。
異時対、黄楼夜景、為余浩嘆。
天涯の倦客は、山中の帰路に、故園の心眼を望断す。
燕子楼空しく、佳人いずこに在りや、空しく楼中の燕を鎖せり。
古も今も夢の如く、何ぞかつて夢の覚めしか、ただ旧の歓と新の怨の有るのみ。
異時に黄楼の夜景に対して、余のために浩嘆するありや。
東坡がここに来る前の赴任地で、「黄楼」という建物を造った、ということだけ踏まえていただくと、こちらもだいたい意味はわかります。
天地の果てまで旅する疲れ果てたわたしは、山中に帰る道のことを思うが、(夢から覚めて)そのふるさとを思い出す心の目の望みも断えてしまった。
ここ「つばめ館」は空っぽだ。かつていた美しい人はどこに行ってしまったのか。今館の中に住んでいるのは、(美しい人ではなく)ツバメたちだけではないか。
思えば、昔も現代もいつだって人間の営みは夢のようなものではなかったか。これまで一度でも、人間が夢から覚めたことがあったのだろうか。ただ、過去のよろこびと現在のかなしみがあるだけではないか。
いずれの日にか、わたしが建てた「黄色い家」の夜の景色を見て、ああとため息をついてくれる人は、いるだろうか。
わーい、これでやっと終わり。
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宋・蘇東坡「永遇楽」。二番は「古も今も夢の如く、何ぞかつて夢の覚めしか、ただ旧の歓と新の怨の有るのみ」という「サビ」の部分はいいのですが、あとは全体に説明口調が多くなっているような気がします。しかし彼は推敲みたいなことをほとんどしないみたいなので、「ほいほい」と言いながら作っているにしてはよくできていますよね。サビの部分だけでも口ずさんでいれば、自分にも何か、あったはずのないロマンスがあったような気もしてくるではありませんか。
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