識者是之(識者これを是とす)(「梁渓漫志」)
知識人にはもう少し慎重に振る舞っていただきたいところかも。

慎重にしないとすぐ壊れるでゴロン。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
北宋の時代のことですが、翰林学士・御史中丞を経て河南・南京(今のナンキンとは違います)の知事となっていた張安道は、高麗からの使者が管内を通過するので、案内に出るよう部下に言われた。朝貢国の正式の使者が通過するときには、各府の「長吏」(筆頭の官員)が案内するのが慣例だからである。
張安道は言った、
「ああ、そうか、しかし申訳ないが、
臣班視二府。不可為陪臣屈。
臣は二府に班視さる。陪臣のために屈するべからざるなり。
わしは(単なる知事ではなく)、二府(軍事の最高機関である枢密使と、行政の最高機関である中書省)の幹部をしたグループに分類されてしまっているからなあ。朝貢国の王の家臣のような陪臣に腰を屈めて挨拶するわけにはいかんのだよ」
そして、
独遣少尹。
独り少尹を遣わす。
(他の府県とは違い)河南・南京府のみは副知事を出迎えに行かせた。
特に問題にもされず、張安道は数年後に都に呼び戻され、参知政事(副宰相)に任命されている。
張安道より十年ほど後輩の韓玉汝は、河南・許昌の知事の時、管内を交趾(こうし。北ベトナムあたり)の使者が通過するというので、同様に案内に出るよう部下から進言されたが、
臣嘗備近弼、難以抗礼。
臣かつて近弼に備われば、以て抗礼すること難からん。
「わしは以前、皇帝陛下のお近くにお仕えした身だからなあ。対等の礼で対応するのは難しいんだよなあ」
と言い出して、武官を責任者にして副使(副知事)を出迎えに行かせた。
これは、中央でも話題になり、
詔所過郡、凡前宰相、知・判者亦如之。
詔して過ぐるところの郡、およそ前宰相、知・判者またかくの如し。
詔が出され、使者が通過する郡で、知事が以前宰相や副宰相、枢密使などを務めていた経歴がある場合は同様にするよう指示された。
のであった。
さらに十年ほど後輩の蒋之奇は、甘粛・煕河の知事の時、
西使卒于中国、棺過其境。
西使、中国に卒し、棺その境を過ぐ。
西夏からの使者が中国(宋)の国内で亡くなり、その棺が、彼の管内を通って故国に運ばれて行くことになった。
公務の途中で亡くなったのであるから、従来から最高級の礼節を尽くすことになっていて、それに基づき、
官属議奠拝。
官属、奠拝を議す。
部下たちは、香典を持って行って棺に礼拝をするよう上申した。
「はあ?」
蒋之奇は言った、
生見尚不拝、奈何屈膝向死胡。
生見するもなお拝せざるに、いかんぞ死胡に向かいて膝を屈せんや。
「生きている時に通り過ぎれば、案内はしても頭を下げるという規定はないのだぞ。それなのに、どうしてもう死んだエビスに向かって膝を曲げて礼拝せねばならんのだ?」
(なんだこいつ)(中央から来て態度でけえ)と、部下の苦虫をかみつぶしたような顔が目に浮かびますね。
乃奠而不拝。
すなわち奠して拝せず。
結局、香典は届けさせたが、礼拝はしなかった。
この対応は、さすがに朝廷は先例とはさせなかったが、
識者是之。
識者これを是とす。
知識人たちはそれをよしとしたのだった。
外夷に対してはこれぐらいの態度をとるのがよいのである。
・・・・・・・・・・・・・・・・
南宋・費兗「梁渓漫志」巻二より。こんなことやってるうちに金に攻められて、北宋は滅亡してしまいました。費兗は北宋滅亡後だいたい70年ぐらいしたころにこの文を書いてます。この10年ぐらいあと、南宋は韓托忠らによる無謀な対金戦を起こし、また敗北してえらいことになってしまいます。80年ぐらいして確かに金は弱体化していたんですが、南宋の方がさらに弱くなっていたんです。
コメントを残す