10月5日 あちこちやばい状況になりつつあり

識者是之(識者これを是とす)(「梁渓漫志」)

知識人にはもう少し慎重に振る舞っていただきたいところかも。

慎重にしないとすぐ壊れるでゴロン。

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北宋の時代のことですが、翰林学士・御史中丞を経て河南・南京(今のナンキンとは違います)の知事となっていた張安道は、高麗からの使者が管内を通過するので、案内に出るよう部下に言われた。朝貢国の正式の使者が通過するときには、各府の「長吏」(筆頭の官員)が案内するのが慣例だからである。

張安道は言った、

「ああ、そうか、しかし申訳ないが、

臣班視二府。不可為陪臣屈。

そして、

独遣少尹。

特に問題にもされず、張安道は数年後に都に呼び戻され、参知政事(副宰相)に任命されている。

張安道より十年ほど後輩の韓玉汝は、河南・許昌の知事の時、管内を交趾(こうし。北ベトナムあたり)の使者が通過するというので、同様に案内に出るよう部下から進言されたが、

臣嘗備近弼、難以抗礼。

と言い出して、武官を責任者にして副使(副知事)を出迎えに行かせた。

これは、中央でも話題になり、

詔所過郡、凡前宰相、知・判者亦如之。

のであった。

さらに十年ほど後輩の蒋之奇は、甘粛・煕河の知事の時、

西使卒于中国、棺過其境。

公務の途中で亡くなったのであるから、従来から最高級の礼節を尽くすことになっていて、それに基づき、

官属議奠拝。

「はあ?」

蒋之奇は言った、

生見尚不拝、奈何屈膝向死胡。

(なんだこいつ)(中央から来て態度でけえ)と、部下の苦虫をかみつぶしたような顔が目に浮かびますね。

乃奠而不拝。

この対応は、さすがに朝廷は先例とはさせなかったが、

識者是之。

外夷に対してはこれぐらいの態度をとるのがよいのである。

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南宋・費兗「梁渓漫志」巻二より。こんなことやってるうちに金に攻められて、北宋は滅亡してしまいました。費兗は北宋滅亡後だいたい70年ぐらいしたころにこの文を書いてます。この10年ぐらいあと、南宋は韓托忠らによる無謀な対金戦を起こし、また敗北してえらいことになってしまいます。80年ぐらいして確かに金は弱体化していたんですが、南宋の方がさらに弱くなっていたんです。

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