常食乎人(常に人に食(やしなわ)る)(「墨子」)
物価高・増税などを克服するには、一攫千金を目指す、何も食わずにハダカで暮らす修行をする、常に王公貴族に養われる、などの方法がある。まだまだ努力の余地はあるのだ。

お金や地位よりも大切なモノがあると思うよ。それは美味いメシとかっこいい服だ!
・・・・・・・・・・・・・・・・
昔者、斉康公興楽万。万人不可衣短褐、不可食糠糟。
むかし、斉の康公、楽の万を興す。万人、短褐を衣(き)るべからず、糠糟を食らうべからざるなり。
むかし、斉の康公は、一万人の楽団を作った。その一万人は、短い褐製の服(粗末な服とされる)を着ることは許されず、ぬかや酒糟(のような粗食)は食べてはならないとされていた。
なぜかというに、
食飲不美、面目顔色不足視也。衣服不美、身体従容不足観也。
食飲美ならざれば、面目顔色視るに足らざるなり。衣服美ならざれば、身体従容観るに足らざるなり。
食べ物・飲み物が美味でなければ、顔つきや顔色が悪くなり、見るのがイヤになるからである。衣服がかっこよくなければ、からだつきや身のこなしが醜くなり、見るのがイヤになるからである。
当時の楽人たちは美男美女のビジュアル系でした。当時の王さまや貴族はビジュアルを楽しまれ、お気に入った者をご寵愛なさったのである。
是以食必梁肉、衣必文繍。此常不従事乎衣食之財、而常食乎人者也。
是を以て、食は必ず梁肉、衣は必ず文繍なり。これ常に衣食の財に従事せず、常に人に食(やしな)わるる者なり。
そういうわけで、彼らの食べ物は必ず良質の穀物と肉、着るものは必ずきれいな縫い取りのあるものばかりであった。この人たち自身は、絶対に服や食べ物といった消費財を作るのに従事しない。つねに誰かが作ったもので暮らす人たちなのである。
墨子先生はおっしゃった、
今王公大人、惟毋為楽、虧奪民衣食之財、以拊楽如此多也。
今、王公大人、惟毋(ただ)楽を為し、民の衣食の財を虧奪し、以て楽に拊することかくの如く多きかな。
現代においては、王や貴族、富豪たちは、ただ音楽を楽しみ、人民の着るもの食べるものを奪い取って、音楽に与えてしまっていることがあまりに多いのだ。
是故子墨子曰、為楽非也。
これ故に子墨子曰えり、楽を為すは非なり、と。
このために墨子先生はおっしゃった、「音楽をするのはいけないことである」と。
・・・・・・・・・・・・・・・・
「墨子」非楽篇より。「音楽」は現代では「何か自分を発現するもの」と読み替えてもらえればいいんだと思います。いいもの食っていい服着てかっこいい、現代の王公貴族である消費者にはもてるしご寵愛もいただけるとは怪しからん。今日も糠(みたいなもの)食って新聞紙(みたいなもの)体に巻いて、文化を消費しながら暮らしていたので、嫉ましいです。ルサンチマンだ、えい!
ただし、斉の康公(在位:前404~前379)は姜斉(姜氏の斉、の意。太公望呂尚の子孫)の最後の君主で、田氏に下剋上される人です。こんな楽団を養う権力はもう無かったはず、と考えられ、このお話自体が成り立たない、とされています。墨子がこの人を「むかし」というのもおかしい。ルサンチマンはしなくてもいいのかも。
コメントを残す