所謂一物(いわゆる一物)(「韻語陽秋」)
これは必要ですね。

でも最近電子マネーなんじゃろうなあ。
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宋の蘇東坡が海南島に流されていたときのこと、葛延之という若いもんが訪ねてきた。
自江陰担簦万里絶海往見。
江陰より簦(とう)を担いて万里絶海を往きて見る。
浙江・江蔭から、竹製の背負い籠を背負って、万里の彼方、ここ絶海の孤島に行って、東坡に面会したのだ。
留一月。
留まること一月。
一か月ほど起居をともにしていった。
それほど取柄がある、というわけでもない若者だったが、孤立した男性高齢者のところに遠く訪ねてきてくれたのだ。東坡は「作文の法」なるものを教えてやった。
儋州雖数百家之聚、州人之所須、取之市而足。然不可徙得也、必有一物以摂之。
儋州(たんしゅう)は数百家の聚なりといえども、州人の須(もち)うるところ、これを市に取りて足る。然るに徙(うつ)し得べからざるや、必ず一物以てこれを摂(と)る。
「ここ海南島の儋州(たんしゅう)は、数百の戸数からなっているが、州の人民たちが必要とするものは、たいてい市場で何かと交換すれば、それで足りる。しかし、その場で交換して持って来られないものがあったら、必ずあるモノを媒介にして自分のものにする」
「へー、そんなモノがあるんですか」
東坡は言った、
所謂一物者、銭是也。
いわゆる一物なるものは、銭これなり。
「一物というのは何かというに、銭じゃ。錢がそれなんじゃ。
銭は大切だぞ」
「な、なるほど」
作文亦然。天下之事、散在経伝子史中、不可徙得、必得一物以摂之、然後為己用。
文を作るもまた然り。天下の事、経・伝・子・史のうちに散在するも、徙し得べからざれば、必ず一物を得て以てこれを摂し、然る後おのれのために用う。
文章を作るのもこれと同じじゃ。天下のことは、「書経」や「春秋」などの経典、その注釈書(例えば「春秋」左氏伝)、思想家の書物、歴史書のあちこちに散らばっている。集めてくるのが難しいときは、必ずあるモノを媒介にして自分のものにする。それから自分で扱い方を考究する。
所謂一物者、意是也。
いわゆる一物なるものは、意、これなり。
この場合、一物というのは何かというに、「思い」がそれに当たる。
つまり、
不得銭不可以取物、不得意不可以用事、此作文之要也。
銭を得ざれば以て物を取るべからず、意を得ざれば以て事に用うべからず、これ作文の要なり。
「銭が無ければ何も手に入らない、思いが無ければ何もすることはできない―――、これが文章を作るときもポイントになるんじゃ」
「ふーん」
延之はこれをメモして帰って行った。果たして後半も覚えていたでしょうか。
この葛延之は、
余三従兄。
余の三従兄なり。
わたしのまたいとこなんです。
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宋・葛立方「韻語陽秋」巻三より。「やっぱり銭やったか」「わてもそうやとおもっとったんや」「こうはしとれへん、はよう銭稼いでこな」みたいにみなさん駆けだしていく後ろ姿が可笑しいほど・・・だったりしませんか。
「韻語陽秋」は「韻語」→詩や詞など、「陽秋」→「陽」は「春」のこと、つまり「春秋」の意、で、合わせて、「詩や詞などに関する歴史書」という意味になります。こんなことも書いてあるんです。平成25年。むかしの人が整理しておいてくれたんだなあ。
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