不若負粟者(粟を負う者に若かず)(「墨子」)
男性の更年期障害についてはこちらを参照されたい。二十年ぐらいこれで苦しんでいることが判明した。凡人には、重いものを背負って遠い道を行くなど、できるはずがないのである。東京ではイヌネコも飼えない生活なので、もうすべてを放り出してそろそろ終わりにする。

人間どものみなさんのツラい人生の伴走者として、ともに走り抜ける愛玩動物でわん。しかし飼えないアパートなどもあるでわん。また、高齢男性には譲渡されないのが一般である。
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戦国の時代、墨子先生がおっしゃった。
今有人於此、負粟息於路側、欲起而不能、君子見之、無長少貴賤、必起之。
今、人のここに有りて、粟を負いて路側に息(いこ)い、起(た)たんと欲して能わざれば、君子これを見て、長少貴賤と無く、必ずこれを起こさん。
今もしここに穀物を容れた俵を背負って道端で休んでいた人がいたとする。この人が「よっこいしょ」と立ち上がろうとして、背中の俵が重すぎて立ち上がれずよろよろしていたら、まともな人はそれを見て、相手の年齢や身分に関わらず、必ずこの人を助けようとするだろう。
何故也。曰義也。
何の故ぞや。曰く、義なればなり。
何故そんなことをするのか。それは、それが正しいことだ(と思っている)からだ。
今為義之君子、奉承先王之道以語之。
今、義を為すの君子、先王の道を奉承して以てこれを語る。
今(戦国時代)、正しいことをしようとするまともな人がいて、古代のすぐれた王さまたちのやり方を受け継いで、その内容を語っていたとする。
その思想によって、混濁の世を救おうというのである。重い荷物を背負って、立ち上がろうとしているようなものだ。
ところが、世俗のひとびとは、
従不説而行、又従而非毀之。
従いて説(よろこ)びて行うにあらず、また、従いてこれを非毀す。
その人の思想を聴いて、喜んで実行しよう、とはせず、その人の思想を聴いて、それを批難し攻撃するのだ。
則是世俗之君子之視義士也、不若視負粟者也。
則ちこれ、世俗の君子の義士を視ることや、粟を負う者を視るに若かざるなり。
ということは、世俗のひとびとは、正しいことをしようとする人を見ても、穀物の俵を背負っている人を見たときのようには大切にしない、ということなのであろう。
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「墨子」貴義篇より。戦国の時代と違って、現代は俵を背負っている人もいませんが、そんなのを背負ってて立ち上がれなくて困っている人を助ける人もいないと思います。世俗のひとびとは、夜となく昼となくカナリアのような心地よい声で、「自助」と「自己責任」を唱えておられます。
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