言下立悟(言下に悟りを立つ)(「虞初近志」)
東京は今日はやっと涼しくなりました。岡本全勝さんがイギリスに行ってたみたいです。湖水地方にネッシーを見に行ったのでしょうか。ネッシーなんかほんとはいないんですよ。

ぴーたーラビットはドウブツ愛護でSDGSですぐれているトナ。LGBTQについてはどうカイ? 保守的トナ?
おれはクリスマス前後しか働かない働き方改革トナ?
かなり意識高いカイ?
・・・・・・・・・・・・・・
こちらはチャイナの十九世紀の終わりから二十世紀にかけてのころのことですが、
京師御者高七、性兀傲好鬥、鬥必以勝為快。少経撓挫、則終日尋讐不休、必至勝乃已。以是人多畏之。
京師の御者・高七は、性兀傲にして鬥を好み、鬥すれば必ず勝つを以て快と為す。少しく撓挫を経れば、すなわち終日讐を尋ねて休(や)まず、必ず勝つに至りてすなわち已む。是を以て人多くこれを畏る。
北京の御者、高七は、性格がえらそうで傲慢でけんか好きで、けんかすれば必ず勝たないと気が済まない。少しでも挫かれたら、一日中相手を探してやまず、探し当てて必ず勝ってからでないと手じまいしない。このせいで、多くのひとが彼を嫌がっていた。
乱後、為某国公使御者、擁蓋策羸、意気頗自得。
乱の後、某国公使の御者と為りて、蓋を擁し羸に策し、意気すこぶる自得せり。
1900年の義和団事変の後、なんとか国の公使の馬車の御者になって、笠をつけ、疲れたウマにムチを当て、たいへん元気で自慢げであった。
ある日のこと、
出前門路窘不能方軌、適前有一老者策笨車、逡巡不前。
前門を出づるに、路窘(くる)しくして方軌する能わず、たまたま前に一老者の笨(ほん)車を策する有りて、逡巡して前(すす)まざるなり。
「笨」は「粗い、粗末な」。
正門から出ようとすると、道が狭くなっていて通り抜けが難しい。ちょうど、老人が一人、粗末な車を(馬にむちを当てて)通り抜けようとして、馬が言うことを聞かないのでぐずぐずしていた。
高七怒目叱之、曰、誰何之車、乃阻人道不速行。将鞭汝。
高七怒目してこれを叱し、曰く、誰何の車ぞ、すなわち人道を阻みて速やかに行かざる。まさに汝を鞭うたんとす、と。
高七は怒りに満ちた目で睨み、怒鳴った。
「どこのどなたの車だ、みんなの行き来する道を塞いで、のろのろとしているのは! (所有者に怒鳴り込みたいところだが、いないなら、)じじい、おまえを鞭でぶってやろうか!?」
老者唯唯微哂。
老者、唯唯(いい)として微哂す。
その老人は頷きながら、にやにやした。
そして言った、
此却為我自己車。非他人車也。汝今日藉外人之勢以鞭我、我安敢不順受。
これ却って我が自己車たり。他人車に非ざるなり。汝、今日(こんにち)は外人の勢を藉(か)りて以て我を鞭うたんとせば、我いずくんぞ敢えて順受せざらんや。
「これは実はわしの所有する車なんじゃ。他人の車ではない。(チャイナが自立すべきなのに、他国の力を借りようとすればするほど支配されていくぞ。)おまえさんは、今日のこの日、外人どのの力を背景にしてわしを鞭打とうというわけじゃ。わしは素直にお受けしないなんてことはできませんのう」
今日のところは、打つなら打たれておきましょう。だが、おまえさんのやっていることが一体だれを利し、誰に損を与えているのか、お考えになってみるがよい―――。
「むむむ・・・」
其語頗雋利。高七無以応、悒悒不楽。
その語すこぶる雋利(しゅんり)なり。高七以て応ずる無く、悒悒(おうおう)として楽しまず。
「雋」(しゅん)は「するどい、切れる」。
その言葉は、たいへん鋭く研ぎ澄まされていた。高七はこれに応えることができず、そのあと鬱々として楽しむことができなかった。
そして、
経数日、即入西山某寺、剃度為僧。
数日を経て、即ち西山の某寺に入り、剃度して僧と為れり。
数日して、突然、北京西郊の何とか寺に入って、剃髪して僧になってしまった。
家族にも何の相談も無かったのである。
僕人李升、与七為戚属、曾携其子往西山、視之。
僕人の李升、七と戚属たりて、かつてその子を携えて西山に往き、これを視る。
下僕の李升は、高七と親戚筋で、一度、七の子を連れて西郊に行き、高七を探したことがあった。
登場に脈絡が無いので、おそらくこの李升がこのお話の情報元ではないかという気がします。
なんとか探し当てて、
見七端居一暗室、閉目趺坐、問之始終無一語。
七に見(あ)うも、一暗室に端居し、閉目して趺坐、これに問うも始終一語無し。
高七に面会したが、その時高七は暗い一室にじっと座って、目を閉じたまま座禅中で、いろいろと訊いてみたが、とうとう一語も発しなかった。
ああ。
此御者能言下立悟、登時放棄一切。其根気自必非凡、遠過於晏子之御、僅以大夫終也。
この御者、よく言下に悟りを立て、登時に一切を放棄せり。その根気自ずから必ず凡なるに非ず、遠く晏子の御の、僅かに大夫を以て終わるに過ぎたり。
この御者(高七)は、よくたった一言のもとで悟りを立てて、即座に一切を放棄することができたものじゃ。その根っこの人間的エネルギーが普通でなかったのは確実で、春秋時代の斉の晏嬰の御者が、なんとか大貴族にまで出世して終わったのに比べると、ずっとすぐれていたといえよう。
大貴族より悟りがいい、という考え方には、同意。
・・・・・・・・・・・・・・・
民国・狄葆賢「記御者高七」(御者高七を記す)(民国・胡懐琛編「虞初近志」所収)。高七はおそらく意識高かったんです。現代ならグローバリストになって尊敬されていたかも。しかし、百年と少し前はすぐれた意識の高い思想が無かったので、しようがないので悟ったのでしょう。
ちなみに、このにやにやしていた老人が、実はわたしだった―――かもしれないのです。世の中どこに悟りの導き手がいるかわからないので、ひとは大切にしましょう。わしももっと大切にしてくだされ。
有名な「晏子の御者」の話は前の肝冷斎の時代にしたことがありますがしてなかったらします。そのうち。
コメントを残す