隠蔵田野(田野に隠蔵す)(「後漢書」)
世の中には隠逸のほかに独行もいるんですよ。

今日は空の日です。「くう」ではありません。
・・・・・・・・・・・・・・
後漢・成帝の時、日食があって、これに思うところのあった帝は、各州から行いのすぐれた士を一人づつ推薦させたところ、蜀の巴郡からは、譙玄、字・君黄が推挙されてきた。
譙玄は、帝にお忍びで出かけることや、後宮で趙飛燕を寵愛していること、宮廷で皇子が次々と夭逝することから何らかの陰謀があるのではないか、など、たいへん言いにくいことをずばずばと諫言した。言葉では無く文書で提出した。人々は罰せられるのではないかと心配したが、処罰されることは無かった。かわりに容れられることもなかった。要するに、帝は読んでなかったのである。
平帝の元始四年、各地の風俗を調べるために八人の繍衣使者(特別なぬいとりのある服を与えられた監察官)が遣わされることになり、玄はその一人として派遣され、
所至専行誅賞。
至るところにて誅賞を専行す。
あちこちで、(中央にお伺いを立てず)勝手に悪への誅罰と善への褒賞を行った。
この行脚の途中、
事未及終、而王莽居摂。玄於是縦使者車、変易姓名、間竄帰家。因以隠遁。
事いまだ終わるに及ばざるに、王莽居摂す。玄ここにおいて使者の車をほしいままにし、姓名を変易して、閒竄して家に帰る。因りて以て隠遁す。
予定業務をまだ終わらないうちに、長安では王莽が摂政の地位に就いた。すると、譙玄は、使者の車を好き放題に使い、姓名を変え、いろいろ誤魔化して郷里に帰ってしまった。そして、そのまま隠遁してしまったのである。
王莽の末年に天下が乱れると、巴蜀の地は公孫述の支配するところとなった。公孫述は譙玄のところに使者を遣わし、
備礼徴之。若玄不肯起、便賜以毒薬。
礼を備えてこれを徴(め)せ。もし玄起つを肯じざれば、すなわち賜うに毒薬を以てせよ。
「礼儀を尽くして仕えてくれるように招請してくれ。もし、譙玄がわたしの配下として立ち上がることを嫌がるようなら、くっくっく、この毒薬を差し上げるのじゃ」
と命じた。
譙玄は地方の有力者ですから、協力してくれればいいのですが、そうでないと自分以外の豪族と結んで抵抗勢力になられると困るからです。
使者からその旨を聴いた巴郡の太守は、従来より譙玄に敬意を持っていたので、使者とともに玄のもとに赴き、
朝廷垂意、誠不宜復辞、自招凶禍。
朝廷意を垂る、まことにまた辞して自ら凶禍を招くべからず。
「朝廷(誰が帝かは明確に言わない)が仕官するようにという意を示しておられます。また辞退して、自ら悪い結果を招くようなことは、絶対にしてはなりません」
と言った。
譙玄は言った、
唐堯大聖、許由恥仕。周武至徳、伯夷守餓。彼独何人、我亦何人。保志全高、死亦奚恨。
唐堯は大聖なるも、許由は仕うるを恥ず。周武は至徳なるも、伯夷は餓を守る。彼ひとり何びとぞ、我また何びとぞ。志を保ち高きを全うして、死するもまたなにをか恨みん。
「唐氏の堯は古代の大聖人だったが、その堯から天下を継いでくれと言われた許由は、断った上に汚れた話を聞いたと耳を洗った(「荘子」等)。周の武王は徳の高いひとであったが、主君の紂王を征伐するという行動を批判して、伯夷は周の飯は食わん、と自分の信念を守って餓死した。このひとたちはどういうひとか。やはり人間ではないか。わたしはどういうひとか。(やはり同じ人間だ。わたしにもできないことはない、)意志を保ち高い心を全うして、それで死んだからといって文句を言うことがあろうか」
と。
遂受毒薬。
遂に毒薬を受く。
とうとう毒薬を手にした―――
そこへ譙玄の息子・瑛が入ってきまして、
泣血叩頭於太守、曰、方今国家東有厳敵、兵師四出、国用軍資或不常充足。願奉家銭千万、以贖父死。
太守に泣血叩頭して、曰く、「方今国家東に厳敵あり、兵師四もに出づ、国用軍資あるいは常には充足せざらん。願わくば家銭千万を奉り、以て父の死を贖わん」。
太守に向かって、血の涙を流し、頭をがんがん地面にぶつけて懇願していわく、
「現在、国家(どこの国家かよくわからないように言います)は東におそろしい敵を構えておられます。軍隊を四方に派遣しておられます。国の予算、軍資金はもしかしたら、いつも充足しているというわけにはいかない時もあるかも知れません。どうぞ、我が家の保有する財産千万銭を奉納させていただきますので、おやじの命だけはどうぞお助けを」
と言った。
太守はその言を以て使者を通じて公孫述に伝えた。錢千万を支払えば、譙家はもはや微々たる百姓でしかない。公孫述としてはそれで問題は無くなるので、これを許した。
かくして、
譙玄遂隠蔵田野、終述之世。
譙玄は遂に田野に隠蔵し、述の世を終う。
譙玄はとうとう田舎に隠れ住み、公孫述が蜀に権力をふるっていた時代を終えた。
このころ、
兵戈累年、莫能修尚学業。玄独訓諸子勤習経書。建武十一年卒、明年天下平定。
兵戈累年、よく学業を修尚する莫(な)し。玄、独り諸子を訓(おし)えて経書を勤習せしむ。建武十一年の卒し、明年天下平定さる。
戦争が何年も続き、学問を修め尊ぶ場などなかった。その中で、譙玄だけは、各方面の子弟を教え、儒学の経典をまじめに学ばせたのである。建武十一年(西暦35)に亡くなったが、その翌年、後漢の光武帝が天下を平定した。
光武帝は譙玄が孤高を守ったのを美とし、
策詔本郡祠以中牢、勅所在還玄家銭。
本郡に詔を策して中牢を以て祠らしめ、所在に勅して玄家の銭を還さしむ。
もとの出身地の郡に命令を発して、ブタとヒツジの肉を以て(毎年)お祀りするようにさせ、また現住所に命じて、公孫述がまき上げたお金を返させた。
「牢」(ろう)は「肉」(るう)です。「中牢」はブタとヒツジが祀られ、「特上」の「大牢」になるとウシもつきます。「少牢」だと一段階下がってブタが除外され、ヒツジだけになる。
瑛善説易、以授顕宗、為北宮衛士令。
瑛は易を善説し、以て顕宗に授け、北宮衛士令と為る。
息子の譙瑛は「周易」をよく説明したので、次の明帝の教授となり、近衛隊長に任命された。
ところで、
時亦有費貽、不肯仕述、乃漆身為厲、陽狂以避之、退蔵山藪十余年。述破後、至合浦太守。
時にまた費貽(ひ・い)有り、述に仕うるを肯ぜず、すなわち身に漆して厲と為し、陽狂して以てこれを避け、山藪に退蔵すること十余年なり。述の破るる後、合浦太守に至れり。
同じころ、費貽という人がいた。このひとも公孫述に仕えるのをいやがり、体にうるしを塗って(全身をかぶれさせて)ハンセン氏病のようにし、ニセ狂人になって仕官の誘いを避けて、山中の森の中に十数年退き隠れていた。公孫述政権が崩壊した後、後漢に仕えて南海の合浦の太守にまでなった。
そうである。
・・・・・・・・・・・・・・・
「後漢書」独行伝より。「独行」というのは、「論語」子路篇に曰う、
子曰、不得中行而与之、必也狂狷乎。狂者進取、狷者有所不為也。
子曰く、その中行を得てこれとともにせずんば、必ずや狂狷か。狂者は進取し、狷者は為さざるところ有り。
先生がおっしゃった。
「中庸のとれた行動を取る人と知り合って、その人と行動をともにするのがベスト。そういうひとと知り合えなかったら、必ず、狂者(やりすぎ者)か狷者(偏屈者)とともにせよ。狂者は進んでどんどんやっていく、狷者はそれだけはしないというこだわりがあるからだ。」
がもとになります。この文章のどこにも「独行」というコトバはありませんが、狂者と狷者は閒に中庸の人が入るので、共有する部分が無く、それぞれ独自に生きる人たちである、ということで、狂者と狷者を「独行」といいます。称賛すべきだが中庸でない人たちの列伝です。
コメントを残す