9月20日 中庸はムリだからどうしようかなあ

隠蔵田野(田野に隠蔵す)(「後漢書」)

世の中には隠逸のほかに独行もいるんですよ。

今日は空の日です。「くう」ではありません。

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後漢・成帝の時、日食があって、これに思うところのあった帝は、各州から行いのすぐれた士を一人づつ推薦させたところ、蜀の巴郡からは、譙玄、字・君黄が推挙されてきた。

譙玄は、帝にお忍びで出かけることや、後宮で趙飛燕を寵愛していること、宮廷で皇子が次々と夭逝することから何らかの陰謀があるのではないか、など、たいへん言いにくいことをずばずばと諫言した。言葉では無く文書で提出した。人々は罰せられるのではないかと心配したが、処罰されることは無かった。かわりに容れられることもなかった。要するに、帝は読んでなかったのである。

平帝の元始四年、各地の風俗を調べるために八人の繍衣使者(特別なぬいとりのある服を与えられた監察官)が遣わされることになり、玄はその一人として派遣され、

所至専行誅賞。

この行脚の途中、

事未及終、而王莽居摂。玄於是縦使者車、変易姓名、間竄帰家。因以隠遁。

王莽の末年に天下が乱れると、巴蜀の地は公孫述の支配するところとなった。公孫述は譙玄のところに使者を遣わし、

備礼徴之。若玄不肯起、便賜以毒薬。

と命じた。

譙玄は地方の有力者ですから、協力してくれればいいのですが、そうでないと自分以外の豪族と結んで抵抗勢力になられると困るからです。

使者からその旨を聴いた巴郡の太守は、従来より譙玄に敬意を持っていたので、使者とともに玄のもとに赴き、

朝廷垂意、誠不宜復辞、自招凶禍。

と言った。

譙玄は言った、

唐堯大聖、許由恥仕。周武至徳、伯夷守餓。彼独何人、我亦何人。保志全高、死亦奚恨。

と。

遂受毒薬。

そこへ譙玄の息子・瑛が入ってきまして、

泣血叩頭於太守、曰、方今国家東有厳敵、兵師四出、国用軍資或不常充足。願奉家銭千万、以贖父死。

と言った。

太守はその言を以て使者を通じて公孫述に伝えた。錢千万を支払えば、譙家はもはや微々たる百姓でしかない。公孫述としてはそれで問題は無くなるので、これを許した。

かくして、

譙玄遂隠蔵田野、終述之世。

このころ、

兵戈累年、莫能修尚学業。玄独訓諸子勤習経書。建武十一年卒、明年天下平定。

光武帝は譙玄が孤高を守ったのを美とし、

策詔本郡祠以中牢、勅所在還玄家銭。

「牢」(ろう)は「肉」(るう)です。「中牢」はブタとヒツジが祀られ、「特上」の「大牢」になるとウシもつきます。「少牢」だと一段階下がってブタが除外され、ヒツジだけになる。

瑛善説易、以授顕宗、為北宮衛士令。

ところで、

時亦有費貽、不肯仕述、乃漆身為厲、陽狂以避之、退蔵山藪十余年。述破後、至合浦太守。

そうである。

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「後漢書」独行伝より。「独行」というのは、「論語」子路篇に曰う、

子曰、不得中行而与之、必也狂狷乎。狂者進取、狷者有所不為也。

がもとになります。この文章のどこにも「独行」というコトバはありませんが、狂者と狷者は閒に中庸の人が入るので、共有する部分が無く、それぞれ独自に生きる人たちである、ということで、狂者と狷者を「独行」といいます。称賛すべきだが中庸でない人たちの列伝です。

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