高処不勝寒(高処は寒きに勝えざらん)(「東坡詩集」)
月は標高が高いから寒いでしょうね。

月まで涼みに行ってくるか、というお金持ちもいるかも。
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北宋の時代のことですが、
丙辰中秋、歓飲達旦、大酔作此篇。兼懐子由。
丙辰中秋、歓飲して旦に達し、大酔してこの篇を作る。兼ねて子由を懐う。
丙辰(ひのえたつの年、ということは熙寧九年(1076)じゃ)中秋の日、歓んで飲んで朝になってしまって、大いに酔ってこの一篇を作った。ついでに弟の子由のことも思う。
というので、中秋の翌日に作った詞。
明月幾時有、把酒問青天。
明月幾時より有る、酒を把りて青天に問わん。
ぴかぴかした月はいつの時代からあるのだろう、と、酒を手にして藍色の空に向かって訊いてみようか。
この句は李白の「把酒問月」の詩句を踏まえる。李白のようにさかずきを挙げて青天にある月に質問をする、というのである。
不知天上宮闕、今夕是何年。
知らず天上の宮闕には、今夕はこれ何の年ぞ。
よくわからないのですが、(時間の流れが地上とは違うであろう)天上の宮殿では、今夜はいったいどんな時代なのでしょうか。
というのが質問内容です。
答えは返ってきませんが、気にせずに進みます。
我欲乗風帰去、惟恐瓊楼玉宇、高処不勝寒。
我は風に乗じて帰り去らんと欲するも、ただ恐る、瓊楼玉宇の高処には寒きに勝えざらんことを。
わたしは(もともと天上の出身で地上に流されてきているだけですから、)風に乗ってそちらに帰ろうと思うのですが、天上の美しいたかどの・玉製の建物の高いところは、(高いところだし月光が冷たそうですから)寒くてがまんできないことだけが心配です。
・・・などと言いつつ、
起舞弄清影、何似在人間。
起ちて舞いて清影を弄すれば、何ぞ人間(じんかん)に在るに似ん。
立ち上がって舞って、清らかな光に照らされた自分の影を踊らせれば、どうして人間世界にいるままのような気がするでしょうか(そちらに行ってしまっているようだ)。
ここまでで一番が終わり。
少し時間が経ったようです。二番が始まります。
転朱閣、低綺戸、照無眠。
朱閣を転じ、綺戸に低(た)れ、眠り無きを照らす。
赤い建物に(月光が)射しこみ(時間が経つ光線が)移っていく。飾りをつけた戸にも射しこみ、眠れずにいる我々を照らす。
不応有恨何事、長向別時円。
恨み有るべからざるに何事ぞ、長く別時に向かいてまどかなる。
※(月が我々に)恨みなどあるはずがないのに、どうしてだろうか、いつも別れの時にばかり満月になるのか。
それは思い込み過ぎではありませんかね。いや、思い込み過ぎではありますまい。
人有悲歓離合、月有陰晴円欠。
人は悲歓・離合有り、月には陰晴・円欠有り。
人間には悲しいこと・うれしいこと、別れと出会いがある。月には晴れたとき・曇ったとき、まどかなとき・欠けたときがあるように。
月は、人間と同じような感情を持つのではなかろうか。もしかしたら美しい女性かも。
此事古難全、但願人長久、千里共嬋娟。
この事、古きより全くし難きも、ただ願うらくは人の長久にして、千里に嬋娟(せんけん)を共にせんことを。
(人生が充実して歓びにあふれ、満月の夜に晴れているという)このようなことは、昔から完全に実現するのは難しいことだ。ただ、おまえさん(弟の子由を指す)が健康で長生きして、千里の遠いところで、わしと同様に美しい女性(のようなあの月)を見ていることを願っている。
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宋・蘇東坡「水調歌頭」(「水の調べの歌の出だし」の節で)。詞なので曲に合わせて作らないといけないのでときおりアクロバチックな表現があります。その言葉遣いのもつれみたいなのが「詞」の魅力なのですが、独力では解釈しきれないので、小川環樹先生の「新修中国詩人選集6 蘇軾」(1983岩波書店)の力を借りました。例えば、
※恨みなどあるはずがないのに、どうしてだろうか・・・
の主語が「月」だ、というのは、チャイナのひとの解釈なんだそうですが、言われてみないと気づきません。最後に「月」が「嬋娟」美しくたおやかな女性になってしまうのも。常人には。
令和六年は中秋翌日の今日も無茶苦茶暑かった。夜の雨でさらにムシムシになった。明日は涼しくなるはずですですです。

月齢からいえば今日の御前が満月だったので、今日が満月ともいえるそうです。・・・うーん、かなりアクロバティックな表現になっているかも。
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