不能容我(我を容るる能わず)(「呻吟語」)
この四十年の間に「敬老」の「敬」という字は死語になったんだと思います。十年前にはまだあったような気がするので、ほんとにこの数年のことかも知れません。世の中ほんとに怪しからん。ところが、グローバリズムや新自由主義に屈してこんな世の中にしてしまったのは、わたしどもだったのです。

敬われるべき老人もまだいるとは思うのだが。
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明代のことですが、
乾坤儘大。
乾坤ははなはだ大なり。
「乾」(けん)「坤」(こん)は、易の用語でそれぞれ「天」と「地」を表わします。「儘」(じん)は、普段は「もし・・・でも」とか「ほしいままに」と訓じてしまえばいい字ですが、最上級を示す「はなはだ、きわめて」という訓があるので、これが一番ぴったりしそうです。
天地(すなわち世界。地球上)はものすごく大きい。
何処容我不得。
いずれにところにか、我を容るるを得ざらん。
どこかには、わたしを大切にしてくれるところがあるであろう。
必ずどこかにあると思います。・・・うーん。よくよく考えると、あなたには確かに無いかも。いや、絶対あります・・・と思ってこの先を読んでください。
而到処不為人所容、則我之難容也。
しかるに、到るところに人の容るるところと為らざるは、則ち我の容れ難きなり。
それなのに、どこに行っても大切にしてもらえないのだとすれば、それは自分の方に大切にされない何かがあるのだろう。
眇然一身、而為世上難容之人、乃号於人曰、人之不能容我也。
眇然(びょうぜん)たる一身にして、世上に容れられ難きの人と為り、すなわち人に号して曰く、「人の我を容るる能わざるなり」と。
こんなにちっぽけな存在でありながら、地球上のどこでも大切にされづらい人になってしまい、それなのに、世間に向かって「おまえたちはわしを大切にしようとしない、怪しからん」とでかい声で言う。
そんな人いないと思いますが、もしいたら、
吁、亦愚矣哉。
吁(う)、また愚なるかな。
うう! なんとまた愚かな人でありましょうか。
自分で気づくはずがないのが困ったことです。
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明・呂坤「呻吟語」修身篇より。もちろん、明代のことなので、現代では地球の上も狭くなりましたから、みなさんを大切にしてくれるところが無くなってしまっているかも知れません。
「容我」(我を容れる)は、「たいせつにしてくれる」という対応から「なんとか居場所をもらえる」という対応まで含んでいるかと思いますが、いちばんやさしく対応されることを前提にして訳してみました。現世はもっと厳しいかも。
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