展両手(両手を展(の)ぶ)(「碧巌録」)
東京に帰ってきました。また体重がこんなことに。本来無一物。なのに何故増えるのか。

本来無一物。わかっておったら払うのだ!
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五代のころ、雲門文偃(うんもん・ぶんえん)のところに、修行僧がやってきました。
雲門問う、
近離甚処。
近く甚(なん)の処を離れたる。
「どこから来たのかな」
僧は答えた、
西禅。
西禅なり。
「西禅和尚のところから来ました」
この人がどんな人か、すぐに調べられないので、眠いから今度調べておきます。
雲門また問うた、
西禅近日有何言句。
西禅、近日、何の言句有りや。
「西禅のやつは、最近、どんなことを言っておったか」
これは、相手の僧の問題意識を見極めるための常套句です。
すると、
僧展両手。
僧、両手を展(ひろ)ぐ。
僧は、(何も言わずに)両手を広げてみせた。
これを言葉に直せば、「なにもありません」あるいは「何も無い(本来無一物)と言ってました」あるいは「どうぞ見つけてください」かも知れません。その答えは、和尚、あんたが考えてください。
答えとしてはなかなかすばらしい。これを見て、
門、打一掌。
門、一掌を打つ。
雲門は、ばしん、と平手打ちを食らわした。
僧は言った、
某甲話在。
某甲(むこう)、話在り。
「某甲」(甲なにがし)は、禅僧の一人称です。
「わたしには、申し上げたいことがございます」
ここまでは何か考えてあったのでしょう。だが、「話せ」とかなんとかいう前に、
門卻展両手。
門、卻って両手を展ぐ。
今度は雲門の方が両手を広げた。
僧無語、門便打。
僧、語無く、門、すなわち打つ。
僧は一瞬ひるんだのかコトバが出てこない。その瞬間、雲門はまたぶん殴った。
パワハラです。だが、これが相手を悟らせるための親心なのだ・・・というのは、近年はもう許されることではありませんので、批判の電話が鳴り響きます。禅の本もおちおち読んでいられなくなったか。
宋に入って雪竇重顕(せっちょう・じゅうけん)禅師が評して「頌」を付けていますが、これが気が利いている。
虎頭虎尾一時収、凛凛威風四百州。
虎頭虎尾一時に収め、凛凛たる威風四百州にあり。
(虎のようなやり手の僧だが)その頭もそのしっぽも捕まえてしまった。りんりんとして威風が四百州(伝統的チャイナ全土、「天下」をいう)を靡かせる。
ほどのすごい剣幕だ。
卻問不知何太嶮。師云、放過一著。
卻って問う、知らず、何ぞはなはだ嶮なるやを。師云う、一著(いっちゃく)を放過せん。
そこでもう一つ質問じゃ。いったいなんでこんなに厳しいのか。
ぽくぽくぽくぽく・・・―――お師匠(つまり、わし)が言う、「最後の一句は残しておくぞ」。
この答えはお前が考えるのじゃ。
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「碧巌録」(「雪竇頌古」)第五十四則。第四句はみなさん、考えてみてください。ぽくぽくぽくぽく・・・と考えて考えて、もうどしようもなくなったら、ちーん、「あ、そうか」と突然すぱりと割れて分かる・・・らしいんです。
「おれ、現代人だし新自由主義者だから、カネだけ今だけ自分だけ、以外のことは考えない」
と思ってても、「試験に出るかも」と言われた瞬間に、「正解」を探し始めるのでありませんか。何の試験か知りませんけど。
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