氷炭同器(氷炭、器を同じうす)(「韓非子」)
氷と炭(火のついた)を同じ器に入れておくとどうなるか、という実験らしいです。科学的だ。

おれ、目への攻撃にはかなり強いと思うでわん。
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孔子の弟子に漆雕開(しっちょう・かい)という人がおりますが、その人の学派が戦国末期にまで伝わっていた。
漆雕之議、不色撓、不目逃、行曲則違於臧獲、行直則怒於諸侯。
漆雕の議は、色撓まず、目逃げず、行い曲なれば臧獲(ぞうかく)にも違(さ)り、行い直なれば諸侯にも怒る。
漆雕学派の論では、(人を殺しても)顔色を変えず、(ひとみを刺されても)目をそむけず、自分が間違った行動をしてしまったときは、恥ずかしいので臧や獲(下男と下女)の目をも避け、自分の行動に間違いが無いと思ったときは、各国の王に対してもにも怒鳴り散らすことが正しいとされる。
ひとみを刺されても目をそむけない、とか、なんでこんな読んだ人がイヤになること考えるんでしょうね。とはいえ、戦国から漢のはじめのころまで、こういう「儒侠」(儒教やくざ)という人たちがたくさんいたそうです。
世主以為廉而礼之。
世主以て廉と為してこれに礼す。
君主は、このような人をまっすぐな人だと言って大切にするものだ。
一方、
宋栄子之議、設不闘争、取不随仇、不羞囹圄、見侮不辱。
宋栄子の議、闘争せざるを設け、取りても仇に随わず、囹圄(れいご)を羞じず、侮らるるも辱とせず。
宋栄子の学派の論では、闘争はしないのがよろしい、仇敵がいてもかたき討ちはしない、牢屋に入れられても恥ずかしいと思わず、軽蔑されても屈辱と感じない、ようになるべきだとされる。
こちらの学派は理解できます。こちらも、
世主以為寛而礼之。
世主以て寛と為してこれに礼す。
君主は、このような人を心の広い人だと言って大切にするものだ。
このように、
自愚誣之学、雑反之辞争、而人主倶聴之。故海内之士、言無定術、行無定議。
愚誣(ぐふ)の学、雑反の辞争いてより、人主ともにこれを聴く。故に海内の士、言に定術無く、行に定議無し。
おろかでうそつきの学派や雑多で相反する命題が争いあうようになってから、君主たる者はその両方を聴かなければならなくなった。そうなると、(君主の様子を見ている)国中のサムライたちには、コトバに定まった論理は無いし、行動には定まった方向性というものが無くなってしまったのである。
夫氷炭不同器而久、寒暑不兼時而至。雑反之学、不両立而治。
それ、氷と炭は器を同じうして久しからず、寒暑は時を兼ねずして至る。雑反の学は両立して治まらざるなり。
ああ、氷と火のついた炭を一つの器に入れておいたら(氷が融けるか炭が消えるかして)長くはそのままではいられない。寒さ暑さはあっという間にやってくる。雑多で相反する学問は、交わることなく両方とも成り立ちうるから一本化することはできないのだ。
今兼聴雑学繆行、同異之辞、安得無乱乎。聴行如此、其於治人、又必然矣。
今、雑学繆行、同異の辞を兼ねて聴けば、いずくんぞ乱るる無きを得んや。聴くと行うとかくの如くんば、その人を治むるにおいても、また必ず然るなり。
今もしも雑多で違っている学問や行動、違ったコトバを両方とも聴いていたら、どうしてバラバラにならないでいられるだろうか。学問も行動もこのようであるならば、他人を治める場合にも、また同様のことになろう。
いろんな考え方があっていいと思いますが、確かに君主に取り入ろうとするサムライたちは困るかも。
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「韓非子」顕学篇より。氷と炭を同じ器に入れたら、「長くはもたない」が正解でした。氷と炭は別々にしておく、か、短期間しか一緒にしておいてはいけないみたいです。
「こんな話を長々して、結論がこれか!」
と怒られるかも知れません。実は、結論なんかどうでもいいので、「ひとみを刺されても目を背けない」という記述を読んでイヤになりました。そこで、他の人にもこの先端恐怖症を味あわせよう、と思っていやがらせで長々と話してしまいました。ひっひっひ。ひいっひっひっひ。
みなさんはこんな結論で終わらさず、「氷炭同器すれば久しからず」を人間関係などにも応用して考えてみましょう。
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