貴公之門(貴公の門)(「呻吟録」)
えらい人が飯食わしてくれるなら行くかも。えらい人は怒ってくるとコワいですが、怒ってこないと「なんとかなるか」と馴れ馴れしくしてしまい、もっと怒ってくるかも。

冬眠せずに起きて仕事をしていると、だんだん眠くなって怒りっぽくなってくるかも。冬眠してほしいですね。
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明代のことですが、
余不好走貴公之門、雖情義所関、毎以無謂而止。或譲之。
余は貴公の門に走るを好まず、情義の関するところといえども、つねに謂われ無きを以て止む。或ひとこれを譲(せ)む。
わたしはおえらい方のところにいそいそと出向いてご機嫌を取りに行くのがきらいである。人情や道義から言ってさすがに出向かねばならないであろう時でも、いつもお邪魔するほどの理由はないのではないかと考え直して出かけない。
「それではいかんだろう」
とある人がわたしを批判した。
そこで、わたしは言った、
奔走貴公、得不謂其喜乎。
貴公に奔走するは、その喜と謂わざるを得んか。
おえらい方のところに奔走していくのは、その方に喜んでいただこうというのではないか。(それはおもねりだろう。)
「いや」とある人は言った。
懼彼以不奔走為罪也。
彼の奔走せざるを以て罪と為すを懼るるなり。
こちらが奔走していない、ということで、えらい人がいじめてくるのではないかと心配なのである。
新説です。
「ああ」
わたしは嘆いて言った、
不然、貴公之門、奔走如市。彼固厭苦之。甚者見於顔面。但渾厚忍不発於声耳。
然らず、貴公の門は、奔走すること市の如し。彼もとよりこれを厭苦せん。甚だしき者は顔面に見(あら)わる。ただ、渾厚にして忍びて声に発せざるのみ。
そんな心配はない。おえらい方のところは、奔走してくるひとが市場にように集まっている。おえらい方は、実はそのことがイヤで苦しくてしようがないはずだ。その程度の強いひとは顔つきにも現れている。ただ、まろやかな性格のため、がまんして声に出さないだけ・・・かもしれないではないか。
おえら方のところに奔走して行っても、
徒輸自己一勤労、徒増貴公一厭悪。且入門一揖之後、賓主各無可言。
いたずらに自己の一勤労を輸(いた)し、いたずらに貴公の一厭悪を増す。かつ入門一揖の後、賓主おのおの言うべきなし。
無駄に自分が忙しい目をして働き、無駄におえらい方のイヤな気持ちを増やすだけだ。それに、門に入って最初の挨拶をした後は、お客の自分もご主人の先方も、何の会話もできないことになったりするのだ。
これはツラいですね。会話ができない、ということは、常識人ではない、ということです。天候の話もできないとは。
此面愧赧、已無発付処矣。
この面愧赧(きたん)し、已に発付するところも無し。
顔は恥ずかしさに真っ赤になるし、それでも何かこじつける用事もないのだ。
わたしが恥ずかしいのはいいのですが、
予恐初入仕者、狃於衆套、而不敢独異。故発明之。
予恐る、初めて入仕する者の、衆套に狃れてあえて独異せざるを。故にこれを発明す。
わたしの心配は、初めてぴちぴちの新入生が来たときも、まわりの人たちの古くからのやり方になずんでしまい、自分だけがそれに異なってはいけないと思ってしまわないか、ということだ。そこで、これを啓発しておきます。
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明・呂坤「呻吟語」修身篇より。おえらい方も含めて、みんなほんとは人に会いたくないんですね。ああよかった。
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