不中為奇(中(あた)らざるを奇と為す)(「燕書」)
だいたい同じ年ごろである。

わし(越後の縮緬問屋の御隠居)も設定では同じぐらいの年だったはず。みんな若作りしおって。
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五胡十六国の一、前燕の烈祖・慕容儁(ぼよう・しゅん。在位348~359)は、新たに降ってきた賈堅が弓を善くすることを聞いた。そこで、
親試之、乃取一牛置百歩上、召堅使射。
親しくこれを試みんとし、一牛を取りて百歩上に置き、堅を召して射せしむ。
自分で本当にそうか試してみようと、一頭のウシを150~160メートル離れたところにつないで、賈堅を呼んで射させることにした。
当時の一歩≒1.5メートルぐらいですから、100歩上は150~160メートルぐらい離れたところです。
賈堅が参上すると、烈祖は訊いた、
能中之乎。
よくこれに中(あ)つるや。
「150~160メートルは離れているが、あのウシに射当てることはできるかのう?」
賈堅は言った、
少壮之時能令不中、今已年老、正可中之。
少壮の時はよく中らざらしむるも、今すでに年老いたり、まさにこれに中るべし。
「若いころは、当たらないようにすることができましたが、もう年老いました。当たってしまうかも知れません」
「ほう」
烈祖はその言葉に粛然としたが、
「わはははは」
横で聞いていた権臣・慕容恪は、大笑いした。
賈堅は命じられた通り、弓をつがえ、無言で発した。
一矢払脊、再一矢摩腹、皆附膚落毛、上下如一。
一矢脊を払い、再び一矢するに腹を摩(こす)り、みな膚に附し毛を落とし、上下一なるが如し。
一本目の矢は、ウシの背中を払うように飛んだ。次の一本はウシの腹を擦った。いずれも皮膚に触れるように飛び、毛を落とした。背中も腹も同じであった。
(見事じゃ)
烈祖は立ち上がって賈堅に賞賜しようとしたが、それより早く慕容恪が賈堅に言った、
復能中乎。
また能く中てんか。
「当てることはできませんのかな。王はそれをお望みじゃぞ」
賈堅は言った、
所貴者以不中為奇、中之何難。
貴ぶところのものは中らざるを以て奇と為す、これに中つること何ぞ難からん。
「わたしどもは当たらないのを称賛いたすのですが・・・。当てることなどなんの困難もござらぬ」
また矢をつがえると、
一発中之。
一発これに中つ。
一発でウシに命中した。
「モー」
なむあみだぶつ。
賈堅時年六十余矣。観者咸服其妙。
賈堅時に年六十余りなり。観者みなその妙に服す。
このとき、賈堅の年齢は六十何歳かであった。見た者はみなその妙技に感服したものだ。
あとでその弓を確認したところ、
弯弓三石余。
弓を弯するに三石の余なり。
弓を引きしぼるのに、約90キロの力が必要であった。
一石は量の単位にもなりますが、重さの単位としては、この時期は27キログラム弱、三石余≒90キログラムぐらい、でしょうか。たいへんな怪力であった。
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北燕・范亨「燕書」賈堅伝より(清・湯球「三十国春秋輯本」所収)。賈堅さまはちょうど今のわしぐらいの年齢であったのだ。この年になって人に試されるとは、めんどくさかっただろうと思います。しかし、賈堅さまはこれによって烈祖に認められました。
烈祖問堅年、対以受新命始及三歳。
烈祖、堅に年を問うに、対するに新命を受けて始めて三歳に及ぶを以てす。
烈祖が賈堅にその年齢を問うに、賈堅は、
「殿さまに新しい命をいただいてから、ようやく三年になります」
降伏してからの年を以て答えたのであった。
烈祖悦其言、拝楽陵太守。
烈祖その言を悦びて、楽陵太守に拝す。
烈祖はその言葉がお気に召して、賈堅を楽陵の太守に任命した。
その後、晋に攻められて戦死しました。
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