為楽非也(楽を為すは非なり)(「墨子」)
音楽がダメなわけではないようです。

みんなで音楽してベンテン。
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また墨子が何やら言っています。
今王侯大人惟毋処高台厚榭之上而視之、鐘猶是延鼎也。
今、王侯大人、ただ(惟毋)高台厚榭の上に処りてこれを視るのみなれば、鐘はこれ延鼎のごときなり。
例えば、王さまや貴族やえらい人たちが、展望台や高楼の上にいるだけで、ただ楽器の鐘を見るだけなら、鐘はナベを引き延ばして裏側にして並べたものでしかない。
つまり、
弗撞撃将何楽得焉哉。其説将撞撃之。
撞撃せざれば、はた何か楽しきを得んや。その説、まさにこれを撞撃せんとす。
鐘を撞いたり叩いたりしなければ、一体何が楽しいというのか。・・・そんなふうにいうと、これを撞いたり叩いたりしようとするでしょう。
しかし、貴族やえらい人はそんなことは自分でしません。人にやらせるのです。ごーんごーんと叩くだけですから、じじい(老)やのろま(遅)にやらせておけばいいのです。ところが、
唯撞撃、将必不使老与遅者。老与遅者耳目不聡明、股肱不畢強、声不和調、明不転抃。
ただ撞撃は、まさに必ず老と遅にはさせしめざらん。老と遅者は耳目聡明ならず、股肱畢強ならず、声和調せず、明転抃せず。
撞いたり叩いたりは、じじいやのろまにさせるはずがない。じじいとのろまは耳も目も悪くなっているし、足腰や腕が屈強ではないし、声はうまく調査しないし、てきぱきと叩けないからだ。
「遅」はもしかしたら「稚」の仮借で「こども」と訳すべきかも知れませんが、「のろま」で通じるからいいや。
将必使当年。因其耳目之聡明、股肱之畢強、声之和調、明之転抃。
まさに必ず当年を使わん。その耳目の聡明、股肱の畢強、声の和調、明の転抃なるに因る。
絶対に盛りの年齢のやつを使う。その耳と目が聡明だし、足腰や手腕も強いし、声は調査するし、てきぱきと叩けるからである。
さて、ここで問題が生じます。
使丈夫為之、廃丈夫耕稼樹芸之時、使婦人為之、廃婦人紡績織絍之事。
丈夫をしてこれを為さしむれば、丈夫の耕稼樹芸の時を廃し、婦人をしてこれを為さしむれば、婦人の紡績織絍の事を廃す。
むきむきの男にこの役をさせたとしよう。そうすると、そいつは耕やし刈り取り植え草取りをすることができなくなってしまう。ぴちぴちの女にこの役をさせたとしよう。そうすると、そいつは糸を紡いだり布を織ることができなくなってしまう。
むきむきやぴちぴちに生産労働をさせられないのだ。そちらをじじいやのろまにやらせておく。すると能率は落ちるし、体が弱っているから労働時間も短くなる。GDPが低下するのだ。
今王侯大人惟毋為楽、虧奪民衣食之財、以拊楽如此多也。
今、王侯大人ただ楽を為すのみにして、民の衣食の財を虧奪し、以て拊楽することかくの如く多し。
現状、王さまや貴族やえらい人たちは、ただ音楽のために、人民の着る物・食う物を奪って不足にし、それによって音楽を演奏するということがこのように多いのである。
是故子墨子曰、為楽非也。
是の故に子墨子曰く、楽を為すは非なり。
そういうわけで、墨子大先生はおっしゃる、
「音楽を演奏してはならない」
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「墨子」非楽篇より。音楽とは、19世紀米国南部のデキシーランドジャズのように、棄てられたナベやカマやビンを叩いて楽しむことから始まるのだ、手を拍ち、地面を叩くことが音楽なのだ、とすれば、墨子の言うところは頷けるのである。墨子は音楽を否定するのではなく、「音楽以外のことができるやつに音楽をさせるな」と言っているんです。
「でも、墨子なんて儒家にさえ負けたわけでしょう、資本主義の下の下ですよね」
「20世紀の一時期に社会主義的だと持て囃す向きもあったが、文革終わったら誰も言わなくなったのでは」
「これ、要するに役に立たないんでしょう?」「わははは」「いひひひ」「おほほほ」
ということで、墨子なんて今さら、と思うと思いますが、墨子の兼愛とか非戦とかの思想はわたしもオワコン(終わったコンセプト)だと思いますが、コトバはおもしろいです。当時の職人詞がもとになっているのではないかと言われますが、省略があまりなくて、かつ、譬喩が文学的ではない、実に散文的です。鐘がひっくり返したナベだ、というのはしっくりきました。この年になって墨子の面白さに気づくとはのう。ほうほう。
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