8月25日 もう終わりだ、夏と他にも何か

為楽非也(楽を為すは非なり)(「墨子」)

音楽がダメなわけではないようです。

みんなで音楽してベンテン。

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また墨子が何やら言っています。

今王侯大人惟毋処高台厚榭之上而視之、鐘猶是延鼎也。

つまり、

弗撞撃将何楽得焉哉。其説将撞撃之。

しかし、貴族やえらい人はそんなことは自分でしません。人にやらせるのです。ごーんごーんと叩くだけですから、じじい(老)やのろま(遅)にやらせておけばいいのです。ところが、

唯撞撃、将必不使老与遅者。老与遅者耳目不聡明、股肱不畢強、声不和調、明不転抃。

「遅」はもしかしたら「稚」の仮借で「こども」と訳すべきかも知れませんが、「のろま」で通じるからいいや。

将必使当年。因其耳目之聡明、股肱之畢強、声之和調、明之転抃。

さて、ここで問題が生じます。

使丈夫為之、廃丈夫耕稼樹芸之時、使婦人為之、廃婦人紡績織絍之事。

むきむきやぴちぴちに生産労働をさせられないのだ。そちらをじじいやのろまにやらせておく。すると能率は落ちるし、体が弱っているから労働時間も短くなる。GDPが低下するのだ。

今王侯大人惟毋為楽、虧奪民衣食之財、以拊楽如此多也。

是故子墨子曰、為楽非也。

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「墨子」非楽篇より。音楽とは、19世紀米国南部のデキシーランドジャズのように、棄てられたナベやカマやビンを叩いて楽しむことから始まるのだ、手を拍ち、地面を叩くことが音楽なのだ、とすれば、墨子の言うところは頷けるのである。墨子は音楽を否定するのではなく、「音楽以外のことができるやつに音楽をさせるな」と言っているんです。

「でも、墨子なんて儒家にさえ負けたわけでしょう、資本主義の下の下ですよね」
「20世紀の一時期に社会主義的だと持て囃す向きもあったが、文革終わったら誰も言わなくなったのでは」
「これ、要するに役に立たないんでしょう?」「わははは」「いひひひ」「おほほほ」

ということで、墨子なんて今さら、と思うと思いますが、墨子の兼愛とか非戦とかの思想はわたしもオワコン(終わったコンセプト)だと思いますが、コトバはおもしろいです。当時の職人詞がもとになっているのではないかと言われますが、省略があまりなくて、かつ、譬喩が文学的ではない、実に散文的です。鐘がひっくり返したナベだ、というのはしっくりきました。この年になって墨子の面白さに気づくとはのう。ほうほう。

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