喀喀然遂死(喀喀然として遂に死す)(「新序」)
台風も行ってしまいました。お盆も終わり、また明日からふつうの日々がはじまる。ゲロゲロ。観タマもあるのです。

せっぷくもしなければならんし、サムライはたいへんなんでぶー。
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戦国以前の古代のこと、という設定ですが、
東方有士、曰袁族目。
東方に士有り、袁族目(えんぞくもく)と曰えり。
東の方の国に、袁族目というサムライがいた。
将有所適、而饑於道。
まさに適くところ有らんとして、道に饑えたり。
行くところがあって旅に出たが、その道中で食べものがなくなり、栄養失調で倒れてしまった。
さて、
狐父之人丘見之下壺餐、以与之。
狐父の人・丘、これを見て壺餐を下して、以てこれに与う。
狐父(こほ)の地の丘という人が、行き倒れている族目を見つけて、壺に入った飯(お弁当なんでしょう)を地面に置いて、食べさせた。
「むぎゅ、むぎゅ、むぎゅう」
袁族目三餔、而後能視、仰而問焉曰子誰也。
袁族目三餔して、而して後よく視、仰ぎて問いて曰く、子誰ぞや、と。
袁族目は三口食べて、それでやっと視力が回復した。倒れたまま仰ぎみて言った、「あなたさまはどなたさまですか」
我、狐父之人丘也。
我、狐父の人、丘なり。
「おれは狐父の住民、名前は丘だ」
「なんですと!」
袁族目は言った、
嘻、爾乃盗也。何為而食我以吾不食也。
嘻(き)、爾すなわち盗なり。何すれぞ、我に食するに吾が食らわざるを以てするや。
「ええー! それでは、おまえは有名な盗賊ではないか。どうして、わたしに、わたしが絶対に食べないもの(すなわち盗賊からもらった食べ物)を食べさせたのか」
そう言って、
両手據地而欧之不出。喀喀然遂伏地而死。
両手地に據(よ)りてこれを欧せんとするも出でず。喀喀然(かくかくぜん)として遂に地に伏して死せり。
「欧」は「嘔」と同じく「食べたものを吐きだす」という字です。「欧」のつくりの「欠」はひとが大きく口を開けて「あくび」をしている象形。「喀喀」は嘔吐する声、というのですから、「ゲロゲロ」という訳がぴったりするのでは。
両手を地面について、食べたものを吐きだそうとした。しかし吐きだせない。ゲロゲロ、ゲロゲロと吐き続けて、ついに地面に突っ伏して、死んでしまった。
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ああ。
県名為勝母、曾子不入。邑号朝歌、墨子回車。故孔子席不正不坐、割不正不食、不飲盗泉之水。積正也。族目不食而死、潔之至也。
県の名「勝母」なれば、曾子入らず。邑、朝歌と号すれば、墨子車を回らす。故に孔子は席正しからざれば坐せず、割正しからざれば食らわず、盗泉の水を飲まず。正を積むなり。族目の食らわずして死せるは、潔の至りなり。
「母に勝つ」という名前の町には、親孝行者の曾子は入ろうとしなかった(①)。「朝から歌う」という名前の都市を前にして、禁欲主義者の墨子は車の行き先を替えた(②)。同様に、孔子は座布団が真っすぐになっていなければ座ろうとしなかった(③)し、きちんと四角に切ってなければ肉を食べようとしなかった(④)。また、のどが渇いても「盗泉」という名の泉では水を飲まなかった(⑤)。「正しさ」をどんどん積み上げたのである。
族目が盗賊の食べ物を食べずに死んだのは、すばらしい潔さであったといえよう。
(念のためですが、上記の①②はこの「新序」以前の古典では確認できないので、漢代は知りませんが現代では、ここが典拠とされているようです。③④は「論語」。⑤も有名な話ですが、前漢の「塩鉄論」に出て来るのが一番古いらしいので、最近(漢代の)語られるようになった「おはなし」のようです。)
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漢・劉向「新序」節士篇より。すばらしいですね。サムライたるものこれぐらい潔癖でなければ。サムライは。わたしは食いますが。
ところで、※※※※・・・までのおはなしは、戦国時代に編纂されたとみられる「列子」の説符篇にも載っています。ただし「列子」では主人公の名前は「爰旌目」(えんせいもく)で、ここまでのおはなしの後に、
狐父之人則盗矣。而食非盗也。以人之盗因謂食為盗、而不敢食。是失名実者也。
狐父の人はすなわち盗なり。而して食(し)は盗にあらざるなり。人の盗なるを以て因りて食(し)を盗たりと謂い、敢えて食らわざるは、これ名実を失える者なり。
「食」は「しょく」の音のときには「食べる」という能動形で、「し」と発音するときは「食べ物」という受動形になります。
たしかに、狐父のひとは盗賊だ。しかし、(彼のくれた)食べ物は盗賊ではない。ひとが盗賊であるということによって食べ物も盗賊だと言って、食べようとしないのは、概念と実態の関係を誤ったものというべきである。
なんと、「列子」では主人公の爰旌目の態度が批判されています。
―――ああ何故だ、どうなっているのだ、矛盾だ、怪しからん、これだから東洋の古代のやつは、ははは、おれたちはすぐれているからなあ、研修やセミナーにも行ってるし・・・・・と思ったと思いますが、よくかんがえると、「新序」では「節士篇」(節度あるサムライの巻)に入っていて、サムライのかっこいい生き方について論じています。これに対して、「列子」の方は「説符篇」(説明が中身と合致しているかの巻)に入っている。つまり、それぞれ自分の言いたいことが先にあって、保有している「おはなし」データベースの中からこのおはなしを持ち出してきただけなんです。東洋の古代のやつらのやることだと思ってゆるしてやってくだされや。
(「新序」の方をもとにほとんど完成したところで、何のボタンを押してしまったのか、全部消えてしまいました。ゲロゲロ。機械に怒鳴ったりしてましたが、その後、まあしようがないや、と思い直して、「列子」の方を読み直したりしてから書き直したので、最初より内容が充実したのでは。観タマの無い日でよかった。ただし、充実したからといって何かの役に立つわけではありませんが。)
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