不識寒暑(寒暑を知らず)(「趙書」)
暑くてもがんばると全勝さんに褒めてもらえるぞ! それにしても今日も暑かった。しかし、台風の余波でしょうか、午後には風が強くなってきた。もう秋ですなあ。かぜのおとにぞおどろかれぬる。トレンドに敏感なみなさんは厚着し始めたりするのかな。

テングになっているやつの鼻や真夏に厚着しているやつの服など吹き飛ばしてやるわー。
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西晋の末(四世紀初頭)、八王の乱の過程で、牧畜民らを率いて乱に参加し永興二年(305)に独立した一団があった。首領を汲桑といい、その親友にして先鋒を務めたのが後に後趙を興す石勒である。石勒もいろいろ強烈な人ですが、その同志であった汲桑はもっと強烈なひとでした。山東・清河の出身で、
年二十余、力扛百鈞、呼聞数里、時人服之。
年二十余、力は百鈞を扛(あ)げ、呼べば数里に聞こえて、時人これに服す。
挙兵した晋に永興二年(305)のころ、年齢二十数歳、百鈞のものを持ち上げる力を持ち、声を張り上げると、数キロ先まで聞こえた。周囲の人たちはその威勢に服して子分になった。
一鈞は三十斤、当時の一斤≒200グラム強、ですから、計算すると、百鈞は、えーと、えーと、えーと・・・、600キロ! これはすごい人です。金メダルです。みんな子分になるのも頷けますね。魏晋期の一里≒440メートルですから、数里は1~2キロ、この距離に聞こえるように叫ぶ、というのは何とかできるかも。
汲桑は自ら「大将軍」と名乗り、河南・鄴を攻めた。
時に、
六月盛暑、而垂重裘、累茵、使十余人扇之。
六月盛暑なるも、重裘、累茵を垂れ、十余人にこれを扇せしむ。
旧暦六月、今なら七月末から八月初めの猛烈に暑い時期だったが、毛皮の服を重ね着し、その上にふとんを何枚もかぶっていた。その上で、十数人の担当者に、扇であおいで風を送らせていた。
この暑いのに、これはすごい。なぜこんなことをしていたが理由は書かれていないのですが、でも夏場にがんがんに冷房効かせてラーメン食ったり、冬にこたつに当たってアイスクリーム食べるひとはいますから、常識の範囲内かも!
あるとき、
扇者悉罷、桑恚不得清涼、斬扇者。
扇する者ことごとく罷むるに、桑、清涼を得ざるを恚(いか)り、扇者を斬る。
扇担当者が(偶然に)全員あおぐのを止めたことがあった。すると、汲桑は、「おれに清涼を寄こさないのか!」と怒って、扇担当者を斬り殺してしまった。
時軍中為之謡曰、奴為将軍何可羞、六月重茵被狐裘、不識寒暑断人頭。
時に軍中これがために謡いて曰く、「奴の将軍と為るは何ぞ羞ずべけんや、六月茵を重ね狐裘を被(き)る、寒暑を識らず人頭を断たん」と。
この時、軍の中でこのことを歌にしたやつがいた。
奴隷野郎が将軍になるのは、別にはずかしいことではござらぬ、
しかれども、真夏の七月布団を何枚もかぶり、キツネの毛皮の服を着て、
寒さ暑さにどう対処するかも知らずに他人の頭を斬り落とす、のはいかがじゃな。
いい歌ではありませんか。
そこへ、河南の兗州刺史・苟晞が攻撃を加え、汲桑は敗走、その過程で死んだ。この苟晞というやつがまたすごいやつで、
治軍厳刻、嗜殺、号称屠伯。
軍を治むるに厳刻にして殺すを嗜み、号して「屠伯」と称す。
軍隊に言うことを聞かせるのに、とにかく厳格で残酷、人を殺すのが好きでたまらぬという人物、当時の人々は「みなごろし伯爵」と呼んだ。
という人で、あまりに殺すので孤立し、後、石勒に降伏、危険なので殺されてしまった。
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前燕・田融「趙書」より(清・湯球編「三十国春秋輯本」所収)。どうですか、背筋寒くなって涼しくなってきませんか。ダメですか。チャイナの本ばかり読んでるので、もっとすごいのでないと刺激されない?
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