北山之北、南山之南(北山の北、南山の南)(「後漢書」)
「あの人、隠者のくせにえらそうにしている」とSNSなどで書きこまれる時代らしいですから、隠者は腰を低くしている必要があります。へへへ。これこのとおりじゃ。こう低く出ておけば、融資などもしてもらえるかも。

山中に隠棲のお方にはたぬき銀行が誠実にご融資申し上げるでポン。木の葉の新札でポン。
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後漢の法真は字・高卿、扶風のひとで、南郡太守であった法雄の子、というのですから名門の出身だ。
学問を好んだが、一定の師は無く、内外の図と典籍に通じて「関西の大儒」とたわれ、弟子が数百人いた。
性恬静寡欲、不交人閒事、太守請見之、真乃幅巾詣謁。
性恬静にして寡欲、人間の事に交わらず、太守これに請見するに、真すなわち幅巾にて詣謁す。
性格はこだわりがなく、物静かで欲望も少ない。世俗の人たちに交わろうせず、時の太守が面会を求めた時には(正装の冠ではなく)頭巾をかぶって登場した。
太守が、「確かにわたしは空虚で薄弱な人間ですが、一応の地位にあることにかんがみ、我が帝国への敬意を示していただきたかったものでございます」というイヤミというかグチを言いましたところ、
以明府見待有礼、故敢自同賓末。若欲吏之、真将在北山之北、南山之南矣。
明府、有礼して待たるを以て、故に敢えて自ら賓末に同じうせり。もしこれを吏とせんと欲せば、真はまさに北山の北、南山の南に在らんとす。
「優秀な太守さまが、礼を尽くしてお招きくださったので、これはわしは賓客の末席に該当するかと思ってまいりましたのじゃ。もし部下にしようとのお考えなら、わしは北の国境の山の向こう、南の国境の山の向こうに住まねばなりますまい」
亡命します、との宣言である。こんな有名人を「亡命させてしまった」と言われたら、文化を理解せぬ太守、と上級国民の間で批判されるのは必定です。
太守懼然、不敢復言。
太守懼然として、敢えてまた言わず。
太守はびびってしまい、二度とそのことは言わなかった。
後に、順帝(在位125~144)が長安に巡幸されたとき、同郷の田弱の推薦によって、帝は法真に面会をお求めになられた。
帝虚心欲致、前後四徴。
帝、虚心に致さんと欲し、前後四徴す。
帝は、本当に心から法真を招こうとして、四回もお召しの使者を出した。
普通の隠者は、皇帝から何度も呼ばれれば感動して出てきます。しかし、法真は、そんなことで感動するようなタマではありませんでした。
吾既不能遯形遠世、豈飲洗耳之水哉。
吾既に形を遯(のが)れ世に遠ざかるあたわず、あに洗耳の水を飲まんや。
「(皇帝から声がかかるとは、)どうやらわしは形式を重んじる社会から逃走し、世俗から遠いところにいることができてないようじゃな。だからといって許由のような別の隠者が世間のことを聞いて汚れた耳を洗った、その水を飲んでしまうようなことになってたまるか」
(「許由洗耳」の故事を用いています。この故事では水を飲まないようにするのは人間ではなくウシですが、細かいことについてはこちらを参照⇒こちら)
・・・と言いまして、皇帝のお召しを断り、
遂深自隠絶。
遂に深く自ら隠絶せり。
とうとう、自ら世間と絶交して隠棲してしまった。
友人の郭正がこれを称賛して言った、
法真名可得聞、身難得而見。逃名而名我随、避名而名我追、可謂百世之師者矣。
法真は、名は得て聞くべきも、身は得て見難し。名を逃るれども名は我から随い、名を避くれども名は我から追う、百世の師と謂うべきなり。
「法真のやつは、名前は有名でよく聞くことができるが、彼自身をこの目で見るのはたいへん難しいのだ。名声を逃れようとしていても名声の方が自分でついてくる、名誉を避けようとしていても名誉の方が自分で追いかけてくる、というタイプであり、百世代(一世代≒20年とすると2000年!)にわたって、文化的指導者と仰がれるべき存在であろう」
と。
年八十九、中平五年、以寿終。
年八十九、中平五年、寿を以て終わる。
八十九歳で、中平五年(188)、寿命を以て亡くなった。
この年齢でも「寿命を以て」ではなく、董卓に殺されたり黄巾賊に殺されたり、刑死したり戦死したりし得る中で、寿命を以て亡くなれたのですから、よかったですね。
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「後漢書」隠逸伝より。隠逸伝もあと数人まで来ました。しかし、今日の法真さまみたいに名声が鳴り響いてしまっていては、隠逸としては下層の「下っ端隠者」と言えましょう。
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