8月11日 山の日は山に行く?もう隠棲してますよ

北山之北、南山之南(北山の北、南山の南)(「後漢書」)

「あの人、隠者のくせにえらそうにしている」とSNSなどで書きこまれる時代らしいですから、隠者は腰を低くしている必要があります。へへへ。これこのとおりじゃ。こう低く出ておけば、融資などもしてもらえるかも。

山中に隠棲のお方にはたぬき銀行が誠実にご融資申し上げるでポン。木の葉の新札でポン。

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後漢の法真は字・高卿、扶風のひとで、南郡太守であった法雄の子、というのですから名門の出身だ。

学問を好んだが、一定の師は無く、内外の図と典籍に通じて「関西の大儒」とたわれ、弟子が数百人いた。

性恬静寡欲、不交人閒事、太守請見之、真乃幅巾詣謁。

太守が、「確かにわたしは空虚で薄弱な人間ですが、一応の地位にあることにかんがみ、我が帝国への敬意を示していただきたかったものでございます」というイヤミというかグチを言いましたところ、

以明府見待有礼、故敢自同賓末。若欲吏之、真将在北山之北、南山之南矣。

亡命します、との宣言である。こんな有名人を「亡命させてしまった」と言われたら、文化を理解せぬ太守、と上級国民の間で批判されるのは必定です。

太守懼然、不敢復言。

後に、順帝(在位125~144)が長安に巡幸されたとき、同郷の田弱の推薦によって、帝は法真に面会をお求めになられた。

帝虚心欲致、前後四徴。

普通の隠者は、皇帝から何度も呼ばれれば感動して出てきます。しかし、法真は、そんなことで感動するようなタマではありませんでした。

吾既不能遯形遠世、豈飲洗耳之水哉。

「許由洗耳」の故事を用いています。この故事では水を飲まないようにするのは人間ではなくウシですが、細かいことについてはこちらを参照⇒こちら

・・・と言いまして、皇帝のお召しを断り、

遂深自隠絶。

友人の郭正がこれを称賛して言った、

法真名可得聞、身難得而見。逃名而名我随、避名而名我追、可謂百世之師者矣。

と。

年八十九、中平五年、以寿終。

この年齢でも「寿命を以て」ではなく、董卓に殺されたり黄巾賊に殺されたり、刑死したり戦死したりし得る中で、寿命を以て亡くなれたのですから、よかったですね。

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「後漢書」隠逸伝より。隠逸伝もあと数人まで来ました。しかし、今日の法真さまみたいに名声が鳴り響いてしまっていては、隠逸としては下層の「下っ端隠者」と言えましょう。

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