禍或不免(禍い或いは免れざらん)(「三十国春秋」)
「万里の長城」にいつまでもでかい顔をされたんじゃかなわんからな、ということでしょう。

物価は上がったが株価が突然下がったぞ。給料はちゃんと上がるのか?
不条理な社会、みんながんばって乗り切るのじゃ。十人ぐらいの不平不満なら聞いてやるぞ。「聞く力」で。
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劉宋(南朝の宋国)の元嘉十三年(436)、文帝は即位を助けてくれた功臣であり先帝以来の名将として北魏との前線、江西・潯陽に在った檀道済とその参軍(与力ですね)であった高進之、薛彤(せつ・とう)の三人を誅殺した。
檀道済は功績も大きく、地位も高かったから、
晩年懼禍。
晩年禍いを懼る。
このころには、朝廷から何かあるのではないかと恐れていた。
其夫人遣婢問進之。
その夫人、婢を遣わして進之に問わしむ。
檀道済の夫人は、檀があまりに恐れるので、侍女を派遣して高進之に本当に誅殺される可能性があるのか尋ねさせた。
高進之は言った、
道家戒盈満。禍或不免。然、司空功名蓋世。如死得所、亦不相負。
道家は盈満を戒しむ。禍い、あるいは免れざらん。然れども、司空は功・名世を蓋(おお)う。もし死するに所を得ば、また相負(そむ)かざらん。
道教思想では、何もかもが満ち足りるのを危険だと考えます。これほど出世してしまわれていては、わざわいを免れることは無理かも知れませんなあ(職を辞してしまえば、あるいは助かるかも)。とはいえ、司空(総理大臣。檀道済のこのときの官位)さまは、功績も名声も世の中に蓋をするほどの巨大なものを得ておられます。この上は、いい死に場所があれば、それ以上のことはないかも知れません。
「きー!」
夫人泣語道済。道済意狐疑、亡何。
夫人泣いて道済に語る。道済も意に狐疑するも、何(いか)んともする亡(な)し。
夫人は泣いて高進之の言葉を道済に伝えた。道済も心の中では何かある、と疑いながらもキツネのように決断できないでいた。
どんどん夜が更けてきたので、「狐疑」は今度また別途説明します。
その後、文帝の遣わした使者に捕らえられると、
道済目光如炬、脱幘投地、曰、壊爾万里長城。
道済、目光、炬(きょ)の如く、幘を脱して地に投じ、曰く、「爾の万里長城を壊さん」と。
道済は、そのときも目の光はたいまつのごとくぎらぎらとし、頭巾を脱うで地面に投げつけると、言った。「おまえ(その場にはいない元帝のことを指す)は、自分の万里の長城(のようなわし)を壊してしまうのだぞ!」
と。
薛彤も捕らえられて、殺されるときに言った、
身経百戦、死非意外事。
身、百戦を経(ふ)、死は意外の事に非ず。
「わしはこれまで自身で百の戦闘に参加してきた。死ぬことは別におかしなことではない」
高進之は、死の直前、ヒゲを撫でながら言った、
累世農夫、父以義死友、子以忠死君。此大宋之光。
累世の農夫、父は義を以て友に死し、子は忠を以て君に死す。これ大宋の光なり。
「わしは先祖代々農夫だった。わしの父は義理を守って友人のために死んだ。その子のわしは、忠義の心を持ったまま主君から殺される。これは、(一介の農夫が義や忠のために死ぬという)大宋帝国の栄光を飾ることになるであろう」
高進之の父は、友人が死んだ後、友人の財産が官吏に奪われ、友人の妻が辱められたので、その官吏をはじめ七人を殺してそのまま亡命し、高進之は幼くして父を失った。その後、何度も父を探しに出かけたが、とうとう再会することはできなかったのだという。
坐地就刑、神色不変。
地に坐して刑に就き、神色変ぜず。
地面に座って死刑を執行されたが、顔色一つ変えなかった。
三人ともかっこいいですね。こんなふうに〇にたいものです。
この時、高進之にただ一人つき従っていた従僕の魯健も、ともに死を選んだので、
無収其尸者。
その尸を収むる者無し。
その死体を片づけて葬る者もいなかった。
薛彤の息子が、
負骨帰葬、求進之骨、不得。
骨を負いて帰り葬らんとし、進之の骨を求むるも、得ず。
父の骨を背負って自分の郷里・下沛に帰って葬儀を行うことにし、父の友人であった高進之の骨も探したのだが、ついに入手できなかった。
そこで、
以其帯同父棺葬焉。
その帯を以て父の棺と同じく葬れり。
その遺品の帯を、自分の父の棺と一緒に葬った。
のだそうである。
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南朝宋・武敏之「三十国春秋」(清・湯球輯「三十国春秋輯本」所収)より。功績が大きくて高い地位にあって、さらに名声やら能力やらがあったりすると、上の人に必ずやられます。気をつけましょう。まだやられていない人は、功績か地位か能力か名声か、何かがまだ足りないんだと思います。
ところで、「三十国春秋」(「三十国春秋輯本」所収)と言われても、何言ってるのかわかりづらいですが、もともと南朝宋の武敏之に「三十国春秋」という著作があったが、早くに佚した。この「三十国春秋」をはじめとする、五胡十六国・南北朝時代の散佚した歴史書十八種の断篇を清の湯球があちこちから探し出して、まとめたのが「三十国春秋輯本」です、ということです。ですが、ややこしいことに、①「三十国春秋輯本」の中には、もう一つ南朝梁の時代に蕭方等が編纂した同名の「三十国春秋」の佚文が収められている(こちらの方が有名な本らしい)こと、②「三十国春秋輯本」自体が「三十国春秋」と呼ばれることが多いこと、からすごく混乱します。蕭方等は梁の皇族らしいんですが、侯景の乱のときに数え二十二歳で亡くなったという人で、絵画にもすぐれたたいへん才能のあった人らしいです。
「三十国」とはどことどことどこの国ぞや。
また難しいことを訊きますね。
・「晋」(西晋・東晋)が一国
・五胡十六国の十六国に、一般にはこれに数えられないが、短期間とはいえ存在した「冉氏の魏」と「西燕」を加えると十八国
・南朝(六朝)のうち、晋以降が宋・斉・梁・陳の四か国
・十六国をまとめた北朝が、北魏、それが分かれて東魏・西魏、それぞれの後継国家が北周・北斉で五か国
・このほか、梁の亡命国家であった後梁、北魏と争った柔然を加えると
・・・やっと三十か国になりました!
本当にこれでいいのはすぐにはわかりません。またわかったら連絡します。
なお、最初の武敏之は「晋」と「宋」だけしか書いてないので、「三十国春秋」は明らかに後世の付けた名称ですが、「隋書」に出てくるときからもう「三十国春秋」という書名で紹介されていますので、かなり早いうちからこの名前で呼ばれていたらしい。
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