泥無身(泥して身無し)(「觚賸」)
ほんとは「親とカネ」だったですかね。

いま、深夜です。お墓に行ったらこんなやつらがいるのかな?
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コロポックルは妖怪ではありません。
さて、我が江蘇・呉江のひと、卜孟碩は、若いころから才能があり、特に書画に優れていた。
其自榜所居緑暁斎、曰。
その自ら、居るところの「緑暁斎」に榜して曰く―――
住んでいる家の「緑暁斎」の入口の柱には、自分で次のように書きつけていた―――
濯足須加漢光腹、抵掌欲捋梁武鬚。
足を濯わばすべからく漢光の腹に加うべく、掌を抵(う)てば梁武の鬚を捋(ひ)かんと欲す。
足を洗ったら、いつも後漢の光武帝の腹に載せてやろう。掌をぽんと叩いて、南朝梁の武帝のヒゲを引っ張ってやろう。
後漢・光武帝の旧友で、帝に招かれて雑魚寝をし、足を帝の腹の上に乗せて寝たという①隠者・巌光と、茅山の山中に隠棲して仙薬を作っていながら、梁の武帝から事あるごとに使者を遣わされて諮問を受けていたので「山中宰相」といわれた②道士・陶弘景の二人の故事を並べて、権力と敵対はしないけどそれを求めるつもりはない、自らは自由な境涯にある、ことを宣言しております。
屋内に入っていくと、対聯が掛けられていた。曰く―――
闘歌喉、鳥衆人寡。
賭笑面、花輸我嬴。
歌喉を闘わするに、鳥衆くして人寡(すく)なし。笑面を賭するに、花輸(ま)け我嬴(か)てり。
歌声を戦わせれば、鳥の方が多くて人間の方は(わたし一人で)少数派。
笑顔を競えば、花の方が負けてわたしの方の勝ち。
彼は、いつも
首挽高髻、身衣大紅苧布袍、跣足行歌市中。所用障面、長三四尺、而袖小、蓋僅方広数寸。見者皆指為狂。
首に高髻を挽き、身に大紅の苧布の袍を衣(き)、跣足にて市中に行歌す。用うるところの障面は長さ三四尺、しかるに袖は小にして、けだしわずかに方広数寸なり。見る者、みな指して狂と為す。
頭には高いもとどりを結い、身には大きな赤いからむしを編んだ上着を着て、はだしで歌いながら町中を歩いていた。使用している顔覆いの扇は柄の長さが一メートルもある。一方で袖は小さく、十センチぐらいで四角く作ってあった。見るひとはみんな、「あの人はおかしい人だよ」と指さした。
たしかに見た目ヤバそうな人ですが、趣味も変なんです。
性喜視鬼、毎於陰雲晦月之夕、独至荒塚中露宿、冀得一遇。
性、鬼を視るを喜び、つねに陰雲晦月の夕に、独り荒塚中に至りて露宿し、一遇を得んことを冀えり。
幽霊や妖怪を見たがり、雲が暗く月の出ない夜になると、いつも一人で荒れ果てた墓場に行って野宿して、なんとか一度でも出会いたいと願っていた。
果たして出会えたのかどうか。本人が、、
年三十二而没。臨没之歳、人有乞其書画者、巻後但題曰、泥無身。
年三十二にして没す。臨没の歳、人のその書画を乞う者有れば、巻後にただ題して「泥無身」と曰えり。
三十二歳で死んでしまった。死んだ年に(どういう予感があったのか)人が書や画を求めると、末尾に(日付や名前など書かず)ただ「どろどろ体無し」と記していた。
卜孟碩が死んでからもう数年経つが、
近日越中有符致乩仙者、亦称泥無身。蓋已仙去矣。
近日、越中に符を乩仙に致す者有りて、また「泥無身」と称す。けだし、已に仙去せるか。
「乩仙」(けいせん)は、道観(道教のお寺)などにいて、わが国でいうこっくりさんのような手法で神仙から未来に関するお告げを得て、依頼人に伝達してくれる占い師です。
最近(清の時代です)、福建に、お告げを書いたお札を占い師に伝えてくれる神霊があり、名前を問うと「どろどろ体無し」と名乗るという。もしかしたら、もう卜孟碩は仙人になってしまっているのかも知れない。きっとそうだろう。
其自為墓誌銘甚佳。
その自ら為せる墓誌銘、甚だ佳なり。
自分で書いていったという墓誌銘が、たいへんよろしい。
鶯坐一身柳、蜂帰両股花。
鶯は坐す一身の柳、蜂は帰す両股の花。
ウグイスは墓の上に植えたヤナギに止まり来ておくれ。ハチは二俣に生えた花に戻ってきておくれ。
何減唐音。
何ぞ唐音に減ぜんや。
唐代の詩にどこか見劣りするだろうか。
うーん、どうでしょうか。「一身」と「両股」はおどろおどろしい死体をイメージしていて、唐詩の中でも「鬼才絶」といわれた李賀などに似ていると言いたいのかも知れませんが、なんだか笑顔の多い明るい人だったっぽいので明るく訳してみました。
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清・鈕琇「觚賸」巻二より。週末だから長々ご紹介いたしました。そろそろ怪談の季節、お墓に肝試しとか行って涼んできたい時期ですね。ひっひっひ。むかしはあの世のものを怖いと少しは思ったが、最近はそちらの方が近づいてきているので、あんまり怖くなくなってきました。もうすぐ「どろどろ身も精神も無し」になって、この世もあの世も平等不二になるのかな。
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