九十行帯索(九十にして行くに索を帯にす)(「陶淵明集」)
昨日、ポリコレとして極めて危険な栄啓期の言動を説明しましたので、今日は楽ちんに引用できます。天気も、今日は北関東で40度以上、南関東で39度だ。これ以上に暑くなることももう無いだろから、明日からはもう楽ちんだ。もう大丈夫なのだ・・・。

涼しくなったら起こしてくだされ。いや、その前に腹が減ったら自分で起きるかも。
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晋の時代に、田舎のおやじがこんな詩を作りました。
積善云有報、夷叔在西山。
善を積めば報い有りと云うも、夷叔は西山に在り。
「易」坤卦・文言伝にいう、
積善家必有余慶、積不善家必有余殃。
善を積める家には必ず余慶有り、不善を積める家には必ず余殃有り。
周囲に徳を及ぼしてきた一族には、必ず思っていた以上のよろこびが訪れるであろう。周囲に迷惑をかけてきた一族には、必ず思っていた以上のわざわいが降りかかるであろう。
おそろしいですね。だが、
徳を及ぼせばそれに対する報いがある、というが、(徳高い)伯夷・叔斉の兄弟は、(武力による征伐を否定して周王朝の庇護を受けられず)西山に隠棲して(餓死して)しまったではないか。
善悪苟不応、何事立空言。
善悪いやしくも応ぜざるに、何事ぞ空言を立つ。
(伯夷・叔斉以外にも)善と悪の報いは対応していない(いい人が苦しみ悪いやつがいい目を見ている)のである。どうして(易経ともあろう書物が)そんなウソを言うのか。
例えば昨日の栄啓期のじいさんであるが、
九十行帯索、飢寒況当年。
九十にして行くに索を帯び、飢寒は当年に況(たぐ)いす。
ここの「行」は「かつ」(且つ)と訓じるのが通常のようですが、そんなに難しい読み方をする必要もないので「行くに」と訓じておきます。「況」は「たとえる」「くらべる」の意があり(「比況」)、ここでは「たぐう」と訓みます。
九十歳でどこに行くにも縄の帯しか無く、飢えと寒さは若いころからずっと同じだ。
後段は「貧なるものは士の常なり」なので、若いころから今まで「士」としてずっと貧乏だったのだ、と推測しているのでしょう。
そんなくそじじいなのに、孔子と話してから今(晋の時代)まで800年ぐらい、栄啓期は孔子から称賛された人物として高く評価されてきた。この先もそうであろう。
不頼固窮節、百世当誰伝。
固窮の節に頼らざれば、百世までまさに誰か伝うべけんや。
いわゆる「固より窮ま」ったその時に発揮する高い人間性が無かったら、百世代まで誰が彼の名を伝えてくれるだろうか。
彼にはそれ(「固窮の節」)があったから評価されるのである。いいことしたから得をするとかいいことしたのに損をするとか、そんなことではないのだ。
「なるほど、「固窮の節」が必要なんだ。ところでそれなんですか?」
と聴きたい人は以下をお読みください。そんなの要らないや、NISAとかで儲かっているから、というひとは今日はここまで。
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六朝・陶淵明「飲酒」詩第二。「飲酒」詩は二十首から成り、全体を読むと何故「酒を飲む」のかわかるのですが、この第二首は「お酒」というコトバさえ入っておりません。ただ「頑張っても貧乏になるなら貧乏でもいいや」と言っているだけです。
「論語」衛霊公第十五に曰く―――
衛霊公問陳於孔子。孔子対曰、俎豆之事則嘗聞之矣。軍旅之事未之学也。明日遂行。
衛霊公、孔子に陳(陣)を問う。孔子対(こた)えて曰く、「俎豆(そとう)の事はすなわち嘗てこれを聞けり。軍旅の事はいまだこれを学ばざるなり」と。明日、遂に行く。
「俎豆」とは、「俎」(そ)は料理やお供え物を置く板の台です。「まな板」みたいな恰好をしていると思ってもらって結構です。「豆」(とう)は「おマメ」ではありません。これは横から見ると「豆」の形にみえる食器の象形文字で、「一」のところに食べ物(お祀りのときはお供え物)を置きます。原始時代の人たちはテーブルと椅子が無いので、地べたに座って、「まな板」や「豆という器」に載せた食い物を取って食べたんです。ご先祖さまを祀るときも同じように、「まな板」や「豆」にお供え物を載せて並べた。「俎豆」の事、とは、食事の作法やご先祖さまの祀り方、要するに礼儀作法を意味します。
衛の霊公が孔子先生に「軍陣の配置や戦闘の仕方」について質問した。
孔子は答えて言った―――「うーん。礼義のことは以前から勉強しておるのですが、軍事についてはからっきし勉強しておらんのですわ」。
そして、翌日には、衛の国から出て行った。
「わしの思想を全く理解しとらんのでやっとれんわ」ということです。
ところが、衛から楚の国に向けて旅したところ、
在陳絶糧。従者病、莫能興。
陳に在りて糧を絶す。従者病(なや)み、能く興こる莫(な)し。
陳と蔡の都市国家の間の原野で包囲されてしまい、食糧が無くなってしまった。つき随っていた弟子たちは弱ってしまい、立ち上がることも出来なくなった。
これを「陳蔡の厄」と言います。陳蔡の野で包囲された理由は伝説としていろいろ言われておりますが、本質的にはやはり孔子が当時危険人物だと目されていたことがあるのでしょう。
子路慍見。
子路、慍(いか)りて見る。
(腹が減って気が短くなってしまったのであろうか、高弟の)子路が怒った顔をしてやってきた。
子路は言った、
君子亦有窮乎。
君子もまた窮する有るか。
「(先生のような)立派なひとでも、飢えに苦しむことがあるのですか」
子路は、孔子に対して「おまえは君子ではない」と批判しているのではなく、孔子のような立派な人(積善の人)が苦しまなければならない不条理な世の中に怒っているのです。
孔子は穏やかに答えた。
君子固窮。小人窮斯濫矣。
君子、固(もと)より窮す。小人は窮まればすなわち濫(みだ)る。
「立派な人も、当然、苦しむことがある。ダメなやつは苦しい時に、乱れてしまう(。そこが違うところなんじゃ。まず落ち着きなさい)」
この「もとより窮す」(どうしたって苦しいことがある)、その時に乱れることがないようにする、というのが「固窮の節」です。
なお、程伊川は「窮を固くす」と訓んで、「苦しい時にこそ固く自分の筋を守る」と解しており、朱子も「それでも通じるけどな」と言ってますが、陶淵明はそんな堅苦しいこととは考えてなかったでしょう。
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