貧者士之常(貧なるものは士の常なり)(「列子」)
これ、紹介していいのかな。黒塗りモノかも。

パリオリンピックでわかった。ポリコレ守れば生首もOK! が欧米の常識ですのよ。
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孔子游於太山、見栄啓期行乎郕之野、鹿裘帯索、鼓琴而歌。
孔子、太山に游びて、栄啓期の、郕(せい)の野を行き、鹿裘に索を帯にし、琴を鼓して歌うを見たり。
孔子大先生が魯の泰山に旅に出たとき、栄啓期という人が郕の原野でふらふらしながら、シカの毛皮の服を着て、縄を帯にし、琴を弾いて歌っているのを見た。
シカの毛皮の服、縄の帯、というのは貧乏人の着る服です。当時はまだ木綿がありません。しかし、絹はともかく、麻布ぐらいはあるもんだろう。
孔子は問うた、
先生所以楽何也。
先生の楽しむ所以は何ぞや。
「栄啓期先生、(ずいぶんご苦労しておられるようですが、)いったい何が楽しくて歌っておられるのか」
栄啓期は答えて言った、
吾楽甚多。
吾が楽しみ甚だ多し。
わしの楽しみはとても多いんじゃ。
①天生万物、唯人為貴而吾得為人。是一楽也。
天は万物を生ずるに、ただ人のみ貴しと為し、而して吾は人たるを得たり。これ一楽なり。
天は万物を生み出した。その中で人間のみが貴いものとされている。そして、わしは人間である。これが第一の楽しみじゃ。
(以下黒塗り)
②男女之別、男尊女卑、故為男為貴、吾既得為男矣。是二楽也。
男女の別、男尊にして女卑なり、故に男たること貴と為すに、吾既に男たることを得る。これ二楽なり。
男と女の区別では、男が尊く女が卑しい。だから男であることが貴いのだが、わしはもう男であることを得ているのじゃ。これが第二の楽しみじゃ。
・・・うまく塗れてないなあ。
③人生有不見日月、不免襁褓者。吾既已行年九十矣。是三楽也。
人生まるるも日月を見ず、襁褓を免れざる者あり。吾、既に已に行年九十なり、これ三楽なり。
人間として生まれながら、太陽や月を見ること無く、生まれてすぐに死ぬ子もいれば、むつきを離れる前に死んでしまう子もいます。それがどうじゃ、このわしはもう九十じゃ、これが第三の楽しみじゃ。
以上を「人生三楽」と言って引用する場合があります。
このようにシアワセな中で、心配することが何かあるであろうか。服も買えない貧乏? もうすぐ死ぬこと?
貧者士之常也。死者人之終也。処常得終、当何憂哉。
貧なるものは士の常なり。死なるものは人の終りなり。常に処りて終わりを得、まさに何をか憂えんや。
貧乏は、わしらサムライのいつものことではないか。死とは、わしら人間の行きつくところではないか。いつものところにいて、行きつくところに行きつくのじゃ、何を心配することがあろうか。
孔子はこれを聞いておっしゃった、
善乎。能自寛者也。
善きかな。よく自ら寛くする者なり。
「善いではないか。この人は、自分をゆったりさせることができた人じゃ」
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「列子」天瑞第一より。「男尊女卑」という四字熟語はこれが初見、あるいはかなり早い段階での使用例かと思います。「易」繋辞上伝では
天尊地卑。・・・乾道成男、坤道成女。
天は尊にして地は卑なり。・・・乾道男を成し、坤道女を成す。
天は尊いのです。地は卑しいのです。そして、・・・天の性質である「乾」の道が男性的なものを形作り、地の性質である「坤」の道が女性的なものを形作るのです。
までしか言っておりませんので、これは何とかセーフか。それをどかんと
男尊女卑。
とまで言ってのけたのである。
ちなみに、わたしは
貧なるものは士の常なり。(だから肝冷斎の服は穴があいているのです。)
を紹介したかっただけなのですが、あんまりそこには注目してもらえないでしょう。
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