7月27日 経験からもろくに学ばず熱中しかける

常学驢鳴(常に驢の鳴くを学ぶ)(「後漢書」)

常に学んでないとすぐ忘れますよ。

我々は歴史はおろか、経験のうち役に立つ経験からは学んでおらず、役に立たないことしか学んでいないのでこんなになっているのだが、鉱山師もぐらべえほどの知恵も無いというのか!

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

漢の戴遵、字・子高は、平帝の時、侍御史であったが、

王莽簒位、称病帰郷里。家富、好給施、尚侠気、食客常三四百人。時人為之語曰、関東大豪戴子高。

その曾孫に当たるのが戴良、字・叔鸞である。

良少誕節、母憙驢鳴、良常学之以娯楽焉。

「戴良驢鳴」という故事の典故です。みなさんも親孝行しましょう。

及母卒、兄伯鸞居盧啜粥、非礼不行。良独食肉飲酒、哀至乃哭。而二人倶有毀容。

実質といっても、見える姿をやつれさせるかどうか、というのが如何にも東洋的ですね。

ある人が問うた。

子之居喪、礼乎。

戴良は答えた、

然。礼所以制情佚也。情苟不佚、何礼之論。夫食旨不甘、故致毀容之実。若味不存口、食之可也。

「むむむ・・・」

論者不能奪之。

相手を「論破」できるんですから、頭のいい人なんでしょう。
その後、同郷の後輩・謝季孝から、

子自視天下孰可為比。

と問われ、戴良、答えて言った、

我若仲尼長東魯、大禹出西羌、独歩天下、誰与為偶。

これは大きく出ました。

その後、どのように推薦されても官職に就かなかった。それでも推薦が引きも切らないので、

悉将妻子、既行在道。

因逃入江夏山中。優游不仕、以寿終。

ところで、

良五女並賢、毎有求姻、輒便許嫁、疎裳布被、竹笥木屐以遣之。五女能遵其訓、皆有隠者之風焉。

・・・・・・・・・・・・・・・

「後漢書」巻八十三より。今回の戴良はお金持ちの隠者なのでちょっと我々には真似しにくいタイプかと思います。大言壮語とか、五人の娘を嫁にやるとか、相手を論破するとか、「それでも隠者か」と言いたくなってくるかもしれません。だが、どんな形にせよ隠者にならないと、寿命を以て終わることができませんぞ。隠者に向けて努力、努力あるのみじゃ。

ホームへ
日録目次へ

コメントを残す