常学驢鳴(常に驢の鳴くを学ぶ)(「後漢書」)
常に学んでないとすぐ忘れますよ。

我々は歴史はおろか、経験のうち役に立つ経験からは学んでおらず、役に立たないことしか学んでいないのでこんなになっているのだが、鉱山師もぐらべえほどの知恵も無いというのか!
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漢の戴遵、字・子高は、平帝の時、侍御史であったが、
王莽簒位、称病帰郷里。家富、好給施、尚侠気、食客常三四百人。時人為之語曰、関東大豪戴子高。
王莽簒位するに、病を称して郷里に帰る。家富みて給施を好み、侠気を尚び、食客常に三四百人なり。時人これがために語りて曰く、「関東の大豪、戴子高」と。
王莽が前漢王朝を簒奪すると、病気だと言って辞職して郷里に帰った。もともと実家は富んでいて、人に物をあげたり施したりするのが好きで、また男気を貴び、居候の男たちがいつも三百~四百人もいた。当時のひとびとは、彼のことをこう言った―――「函谷関の東にでかいおとこがいるぜ。それが戴子高だ」と。
その曾孫に当たるのが戴良、字・叔鸞である。
良少誕節、母憙驢鳴、良常学之以娯楽焉。
良、少くして誕節あり、母驢鳴を憙び、良常にこれを学びて以て娯楽す。
戴良は若いころからおかしなこだわりがあった。母がロバの鳴くのを聞くのが好きだったので、戴良はいつもその鳴き声を学んでいて、それを真似て母を楽しませたのであった。
「戴良驢鳴」という故事の典故です。みなさんも親孝行しましょう。
及母卒、兄伯鸞居盧啜粥、非礼不行。良独食肉飲酒、哀至乃哭。而二人倶有毀容。
母の卒するに及びて、兄・伯鸞は盧に居りて粥を啜り、礼に非ざれば行わず。良は独り食肉飲酒し、哀至ればすなわち哭す。しかるに二人ともに毀容有り。
母が亡くなると、兄の伯鸞はお墓の傍に庵を結び、そこでおかゆを啜って、(一日に何回声をあげて泣くか、など)「礼」の求めるしきたりどおりに行動していた。一方、良だけは肉を食ったり酒を飲んだり、しきたりを守らず、しかも泣きたい時に泣き声をあげるのであった。しかしながら、二人とも実質的な悲しみが強く、どちらも「毀容」(見た目を壊す)、すなわち悲しみにやつれた姿をしていた。
実質といっても、見える姿をやつれさせるかどうか、というのが如何にも東洋的ですね。
ある人が問うた。
子之居喪、礼乎。
子の喪に居るは、礼か。
「おまえさんの服喪のやり方は、礼に則っているのか(。則っていないだろう)」
戴良は答えた、
然。礼所以制情佚也。情苟不佚、何礼之論。夫食旨不甘、故致毀容之実。若味不存口、食之可也。
然り。礼は情の佚するを制する所以なり。情いやしくも佚せざれば、何ぞ礼の論あらんや。それ、食旨も甘からず、故に毀容の実を致す。もし味の口に存せざれば、これを食らうも可なり。
「則っているに決まっているだろう。礼は感情がゆるんでしまわないようにコントロールする手段だ。感情がゆるんでしまわないなら、礼がどうだとか論じる必要はない。そして、美味いものを食っても美味しいとは思えないのだから、見た目がやつれてしまうという実質は果たしているわけだ。もし美味さが口に味わえないのなら、食ってもいいではないか」
「むむむ・・・」
論者不能奪之。
論者、これを奪う能わず。
議論を吹っ掛けた人たちも、言い負かすことが出来なかった。
相手を「論破」できるんですから、頭のいい人なんでしょう。
その後、同郷の後輩・謝季孝から、
子自視天下孰可為比。
子は自ら視て、天下の孰(だれ)と比と為すべきか。
「先生は自分でご覧になって、歴史上のどなたと比べられるような人物だとお考えですか?」
と問われ、戴良、答えて言った、
我若仲尼長東魯、大禹出西羌、独歩天下、誰与為偶。
我は仲尼の東魯に長じ、大禹の西羌に出づるがごとく、天下に独歩して誰と偶を為さんや。
「わしは、仲尼さん(孔子を字で言った)が東の魯国で育ち、偉大な古代の禹王が西の異民族の中で生まれたように、歴史上独立して行動しておるから、どこにも比べられるような人はおらんよ」
これは大きく出ました。
その後、どのように推薦されても官職に就かなかった。それでも推薦が引きも切らないので、
悉将妻子、既行在道。
妻子を悉く将いて、既に行きて道に在り。
女房子供を全員連れて都会を離れることにして、その途中の路上でまたお迎えに官吏と出会った。
因逃入江夏山中。優游不仕、以寿終。
因りて江夏山中に逃げ入る。優游仕えず、寿を以て終われり。
そのまま湖北の江夏の山中に逃げ入ってしまい、仕えずに自由に暮らして、相当の年齢で亡くなった。
ところで、
良五女並賢、毎有求姻、輒便許嫁、疎裳布被、竹笥木屐以遣之。五女能遵其訓、皆有隠者之風焉。
良の五女並びに賢、求姻有るごとに、すなわち許嫁し、疎裳、布被、竹笥、木屐を以てこれに遣わす。五女よくその訓に遵い、みな隠者の風有り。
良には五人の娘があった。いずれも賢女といわれたが、結婚の申し込みがあるとすぐに嫁にやることを承諾し、彼女らには、粗末なスカート、布のかぶりもの、竹の物入れ、木の下駄だけを嫁入り道具に贈った。五人の娘たちもよくその教えに従って、みんな隠者の風格を持っていた。
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「後漢書」巻八十三より。今回の戴良はお金持ちの隠者なのでちょっと我々には真似しにくいタイプかと思います。大言壮語とか、五人の娘を嫁にやるとか、相手を論破するとか、「それでも隠者か」と言いたくなってくるかもしれません。だが、どんな形にせよ隠者にならないと、寿命を以て終わることができませんぞ。隠者に向けて努力、努力あるのみじゃ。
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