西園如雨(西園は雨の如し)(「清波雑志」)
毎日暑い・・・けど、もう秋がそこまで来ているような気がしないでもないです。秋が来ると夏用品はポイ捨てだ。おれたちのように冬まで夏服を着る人は取り残されるのだ。

ポイ捨てられると忘却の河を流れていくぜ。
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北宋末の新法党の権臣・蔡京が引退したとき、
賜隣地以為西園。
隣地を賜りて以て西園と為す。
屋敷の隣の地をいただいた。そこで、蔡京は西庭園を開いた。
従来の邸宅にあった庭園は東庭園とした。蔡京は東西いずれにも贅を尽くしたあずまやを設け、天下の奇岩名石を運び入れ、池水を引いて魚・亀の類を泳がせた。
都・開封の子どもたちの間では、
東園如雲、西園如雨。
東の園は雲の如く、西の園は雨の如し。
東のお庭は雲のように、西のお庭は雨のよう。
と歌われていたのである。
一日、京在園中、顧焦徳曰、西園与東園、景致如何。
一日、京、園中に在りて、焦徳を顧みて曰く「西園と東園、景致如何ぞ」と。
ある日、蔡京は庭園の中で、道化師の焦徳の方に向かって言った。
「西庭園と東庭園、それぞれ景色と風情は、どちらがいいかな?」
焦徳は言った、
太師公相、東園嘉木繁陰、望之如雲。西園人民起離、泪下如雨。
「太師公相なり、東園は嘉木繁りて陰を為し、これを望むに雲の如し。西園は人民起離れして、泪下ること雨の如し」と。
お殿さまは身分は公爵、職務は宰相まで務められ、東庭園はよい木々ばかりが繁茂して、まるで雲が湧いているようだ、と言われます。西庭園は人民たちの別れを促し、涙の落ちること雨のようだったと言われます。
けだし、西園を作ったとき、
毀民屋数百間。
民屋を毀(こぼ)つこと数百間なり。
そこにあった人民たちの家、百の柱の間の長屋が破壊、立ち退きさせられたのである。
そのことを風刺したのだ。
語聞、抵罪。
語聞して、罪に抵つ。
その言葉が評判になるころ、焦徳は罪に落とされて都から追放された。
あるひとが言うには、
一怜人何敢面詆公相之非、特同輩以飛語、嫁其禍云。
一怜人、何ぞ敢えて公相の非を面詆せん、特に同輩の飛語を以てし、その禍を嫁さんとするなり。
一俳優ごときが、公爵兼宰相を目の前で詆る(ようなゆとりや度胸を持つ)ことができようか。おそらく、同輩あたりが誰が言ったか分からないような噂話を作って、罪を受けるのを人に移そうとしただけではないだろうか。
と。
そうなんですか。なるほど。さすがは大人だ。裏の裏まで読む、ということか。
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宋・周煇「清波雑誌」巻六より。この焦徳のように利用だけされてポイとされないようにしないと。
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