不能要銭(銭を要むる能わず)(「清通鑑」)
暑い。昼間雨が降りましたが、気温は下がらず湿度だけ上がった。背筋の凍るようなお話をしましょうかねえ・・・。

銭を求めることはできなくても、お札になるような賢者になるべき。いや、逆かな。
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清の乾隆帝の治世の末は、権臣・和坤の勢威がたいへん強かった。批判したりすると和坤の意を受けて弾劾する者が現われ、罪をでっち上げられてしまうのですから、誰も歯向かわなかった。
そんな中で、軍機大臣兼東閣大学士の王傑、字・偉人だけは、
于枢廷十余年、事有可否、未嘗不委屈陳奏。
枢廷に十余年あり、事の可否有れば、いまだ嘗て委屈して陳奏せざることあらず。
軍事や政治の枢密のことを諮る会議に十年以上出ていた。事案について良し悪しを決めねばならない時には、何かに屈して黙っているということは無かった。
しかしそういう意見をいうべきことが無い時は、
毎議軍政、黙然独坐。
軍政を議するごとに、黙然として独坐せり。
軍事や政治の重要な会議でも、いつも黙ったまま独りで座っていた。
ある日、和坤は、この日も王傑が黙ったままで会議が終わったので、
執其手、戯曰、何柔荑乃爾。
その手を執りて、戯れて曰く、「何ぞ柔なる荑乃(ていだい)なるのみ」と。
王傑の手に触って、冗談ぽく言った、
「ほんとうに、柔らかなつばなの芽のようですなあ(何もご苦労しておられないのでしょうかねえ)」
と。
王傑はマジメくさって答えた、
王傑手雖好、但不能要銭耳。
王傑の手は好しといえども、ただ銭を要むる能わざるのみ。
「この王傑の手が柔らかでいい手だと褒めてくださるか。ただ、カネを寄こせと差し出すことだけはできませんぞ」
和坤が収賄に務めて国家予算の何倍という財産を蓄えていることは周知のことだった。
和坤赫然。
和坤赫然たり。
和坤さまのお顔は、恥ずかしさと怒りで真っ赤におなりになった。
あわわわ、どんな仕返しがあることでしょうか、真夏に聞いても背筋がゾクゾクするではありませんか。
しかし
乾隆帝知之深、和坤雖厭之、亦不能去。
乾隆帝これを知ること深く、和坤これを厭うといえども、また去る能わず。
乾隆帝は王傑の人となりや能力をよく知っていたから、和坤がどんなに嫌がっても、左遷することさえできなかった。
ああよかった。
乾隆帝は退位して上皇となったあとも実権を放さなかったが、崩御して嘉慶帝の親政が始まると和坤は誅殺されました。王傑はその後、足疾(痛風でしょう)を以て軍機大臣を退いたが、帝はなお事件があると必ず王傑を呼んで意見を聴いたという。
嘉慶七年(1802)、七十数歳になって骸骨を乞い(退職を願うこと)、許されて陝西・韓城に帰郷するとき、帝自ら詩を作って送った。
直道一身立廊廟、清風両袖返韓城。
直道の一身は廊廟に立ち、清風の両袖は韓城に返る。
真っすぐな言動でただ一人、国家の枢機を論じる廟堂に立っていたが、
清らかな風に両袖を吹かせて(両袖には何も入っていない、汚れた財産は持っていない、の意)、郷里の韓城に帰ることとなった。
と。その栄誉、思うべし。
部下に教えてこんなことを言ったという。
為政之道、当開誠布公、不可有意除弊。此弊除、他弊興矣。
政を為すの道は、まさに誠を開き公を布(し)くべく、除弊の意有るべからず。この弊除すれば、他の弊興るなり。
「行政を実施するときは、誠実な声を聞き、公正に施行すること、これに尽きる。何か弊害を取り除こうということを考えてはいかん。弊害などというものは、一つを除けば別のが出てくるのだ」
ある時、若い者が仏教を激しく攻撃することを言い、同意を求めてきた。対して曰く、
吾未嘗習此也。
吾いまだ嘗てこれを習わず。
「すまんが、わしはまだそれを勉強してないのでなあ」
温厚の賢者というべきであろう。
ときどきは北京に呼ばれて帝に拝謁していたが、嘉慶十年(1805)正月、
卒于京邸、寿八十有一。
京邸に卒す、寿八十有一なり。
北京によばれている時に、官邸で死んだ。八十一歳であった。
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「清通鑑」巻162より。やっと嘉慶年間、19世紀に入りました。白蓮教の乱は大変でしたよ。
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