戒石銘(戒石の銘)(「土風録」)
暑くなってきました。もうダメだ。食欲も減退。だが体重はなぜか増える。体重が増えないように石にでも刻んで戒めないといけませんが、チャイナの「戒石銘」について、よくまとまった記述を見つけたので自分で調べたような顔をして紹介してみます。

宇宙人がタコのかたちをしているだろうというのも自分で調べたのだ。
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今は清の時代ですが、
郡県署立石鐫、「爾俸爾禄、民膏民脂。下民易虐、上天難欺」十六字、曰戒石銘。
郡県の署に石を立て、「爾の俸爾の禄は、民の膏民の脂なり。下民は虐しやすきも上天は欺き難し」と十六字を鐫(ほ)り、「戒石銘」と曰う。
郡や県の役所に石碑を立てて、それに、
おまえの給与も俸禄も、すべて人民の流す脂肪が変化したものだ。
下の人民たちを虐げるのは簡単だが、上のお天道さまを騙すのは難しいぞ。
と漢字十六字を彫りつけたもの、これを「戒石銘」というのである。
北宋の人・張唐英が著した「蜀檮杌」※によれば、
広政四年五月、孟昶著儀石銘頒于郡県。爾俸爾禄云云、則其銘始于孟蜀。
広政四年五月、孟昶、儀石銘を著わして郡県に頒つ。爾の俸爾の禄云云は、すなわちその銘、孟蜀に始まるなり。
広政四年(941)五月、後蜀の王・孟昶(もう・ちょう)は「儀石銘」なる文書を作って、地方部局に分け与えた。「おまえの俸給や食禄は・・・」というあの銘は、孟氏の蜀から始まったのである。
なのだそうである。
※=「蜀の歴史書」の意。「檮杌」(とうこつ)は古代の歴史書の名前。なお、ここでいう「蜀」は五代十国の十国の中に数えられる「前蜀」(907~925。王氏が建てた国であるため「王蜀」ともいう)「後蜀」(934~965。孟氏が建てたので「孟蜀」という)を指す。
また、五代の人で宋には仕えなかった景渙の「野人閑話」という本に載せるところでは、
孟昶所著銘詞凡二十四句、名曰令箴。宋太宗摘其切要四語書之、頒于天下州県、更名曰戒石銘。
孟昶の著すところの銘詞二十四句、名づけて「令箴」と曰えり。宋の太宗その切要の四語を摘まんでこれを書し、天下州県に頒ちて、名を更(あらた)めて「戒石銘」と曰う。
孟昶の書いた銘の言葉は、全体で二十四句(×4文字=96字)あり、「長官たちのための箴言」と名付けられていた。宋の太宗皇帝(在位976~997)は(長いのを止めて)ポイントとなる四行(16字)をちょっと選んで書き物にして、天下の州県の役所に配り、このとき名前を改めて「戒石銘」としたのである。
後相沿不改。
後、相沿いて改めず。
その後は、それでいいんではないかということで改められてこなかった。
南宋の洪邁の「容齋随筆」も、呉曾の「漫録」も、みなそういっている。
少し付け加えると、「続通鑑」には、南宋・紹興二年(1132)の条に、
黄庭堅所書戒石銘頒于州県刻石。
黄庭堅、書するところの「戒石銘」を州県に頒ちて石に刻ましむ。
北宋末の黄庭堅(山谷先生)が書いた「戒石銘」16字を各地の役所に届けて、石碑に刻ましめた。
という記述がある。
不知太宗已有之。
太宗已にこれ有るを知らずや。
(100ぐらい前の)太宗皇帝がすでに始めていたのに、そのことを知らなかったのだろうか。
また、北宋の欧陽脩が古代からの金石文について整理した「集古録」には、
戒石起于唐明皇。
戒石は唐・明皇より起こる。
「戒石」というのは、唐の明皇さまの時に始められたのだ。
とある。「明皇」は玄宗皇帝(在位712~756)のことだから、本当にそうなら二世紀以上遡ることになるが、
明皇有賜諸州刺史以題座右詩、尚無戒石銘之称。
明皇、諸州刺史に賜るに「座右に題するの詩」を以てし、なお「戒石銘」の称無し。
玄宗皇帝は確かに各州の知事に対して「席の右側に書きつけておくべきコトバに関する詩」というのを下賜されたことがあったが、「戒士銘」と呼ばれるものを作ったわけではない。
とのことです。
以上。
ところで、「蜀檮杌」には、後蜀の・孟昶(934~965)の作ったという二十四句が記録されていますので、後で忘れるといけないのでここに記載しておきます。かなり難しい典故を使っているようですので、一部手に負えないが、読み下しもしてみます。
朕念赤子、旰食宵衣。 朕、赤子を念いて、旰食し宵衣す。
言之令長、撫養恵綏。 これを令長に言いて、撫養し恵綏す。
政存三異、道在七糸。 政は三異を存し、道には七糸在り。
駆鶏為理、留犢為規。 鶏を駆りて理と為し、犢(こうし)を留めて規と為せり。
寛猛得所、風俗所移。 寛猛ところを得、風俗の移すところと為る。
無令侵削、無使瘡痍。 侵削せしむる無かれ、瘡痍せしむる無かれ。
下民易虐、上天難欺。 下民は虐げ易きも、上天は欺き難し。
賦与是切、軍政是資。 賦・与はこれ切なれ、軍・政はこれ資れ。
朕之賞罰、固不逾時。 朕の賞罰は、もとより時を逾えず。
爾俸爾禄、民膏民脂。 爾の俸、爾の禄は、民の膏、民の脂なり。
為民父母、莫不仁慈。 民の父母たりては、仁慈ならざる莫れ。
勉為爾戒、体朕深思。 勉めて爾の戒めと為し、朕に体して深思せよ。
わしは赤子のような人民たちのことを思って朝飯を昼ごろ食い、昼の着替えを夜にするほどヒマが無い。
思っていることを知事たちに言うから、百姓たちをやさしく撫でて恵みを垂れよ。
政事には三つの「異見」は残しておかなければならないし、道徳には七つの「糸へん事項」が存在する。
ニワトリを追い出して物理の有り方を追求し、子牛を売らないことを規則にすることができるだろうか。(このへんの故事がわかりません)
寛大なところと猛烈なところとうまくバランスが取れれば、人民たちの暮らしぶりも変わるだろう。
侵して削り取ったりしてはいけない、傷つけてはいけない。
下の方の人民はいじめやすいものであるが、天上の方々にはウソは言えないのだ。
税金とバラマキとは必要に応じ、軍事や政治には必要な資材もあるであろう。
わしが行う表彰と刑罰は、その時点その時点で発出される。
おまえの給与や俸禄はすべて人民たちの脂肪から出てきたものなのだ。
人民の父母というべき知事の職務にある以上、仁義と慈愛を持たねばなるまい。
以上をおまえたちの戒めとして努力し、わしのつもりになって深く考えてやってくれ。
うひゃー。
こんなの覚えられるはず無いから「戒石銘」でよかったですね。
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清・顧張思「土風録」巻四より。前蜀の王建のコトバだという説もあったような気がしますが、その説は少なくとも顧張思は採っていないようです。
「戒石銘」は二本松藩まではいいかも知れませんが、今こんなことを言われたら、お役人(公務員)のみなさんは悲しくなってくるのではないかと思います。
上民虐我、天下称黒。
上民我を虐げ、天下黒と称す。
(経〇連や国〇議員などの)上層の民間人は我々をパワハラし、世間はブラック職場と呼んでいる。
と改竄してあげますか。
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