7月19日 すごく暑くなってきました

戒石銘(戒石の銘)(「土風録」)

暑くなってきました。もうダメだ。食欲も減退。だが体重はなぜか増える。体重が増えないように石にでも刻んで戒めないといけませんが、チャイナの「戒石銘」について、よくまとまった記述を見つけたので自分で調べたような顔をして紹介してみます。

宇宙人がタコのかたちをしているだろうというのも自分で調べたのだ。

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今は清の時代ですが、

郡県署立石鐫、「爾俸爾禄、民膏民脂。下民易虐、上天難欺」十六字、曰戒石銘。

北宋の人・張唐英が著した「蜀檮杌」※によれば、

広政四年五月、孟昶著儀石銘頒于郡県。爾俸爾禄云云、則其銘始于孟蜀。

なのだそうである。

※=「蜀の歴史書」の意。「檮杌」(とうこつ)は古代の歴史書の名前。なお、ここでいう「蜀」は五代十国の十国の中に数えられる「前蜀」(907~925。王氏が建てた国であるため「王蜀」ともいう)「後蜀」(934~965。孟氏が建てたので「孟蜀」という)を指す。

また、五代の人で宋には仕えなかった景渙の「野人閑話」という本に載せるところでは、

孟昶所著銘詞凡二十四句、名曰令箴。宋太宗摘其切要四語書之、頒于天下州県、更名曰戒石銘。

後相沿不改。

南宋の洪邁の「容齋随筆」も、呉曾の「漫録」も、みなそういっている。

少し付け加えると、「続通鑑」には、南宋・紹興二年(1132)の条に、

黄庭堅所書戒石銘頒于州県刻石。

という記述がある。

不知太宗已有之。

また、北宋の欧陽脩が古代からの金石文について整理した「集古録」には、

戒石起于唐明皇。

とある。「明皇」は玄宗皇帝(在位712~756)のことだから、本当にそうなら二世紀以上遡ることになるが、

明皇有賜諸州刺史以題座右詩、尚無戒石銘之称。

とのことです。

以上。

ところで、「蜀檮杌」には、後蜀の・孟昶(934~965)の作ったという二十四句が記録されていますので、後で忘れるといけないのでここに記載しておきます。かなり難しい典故を使っているようですので、一部手に負えないが、読み下しもしてみます。

朕念赤子、旰食宵衣。 朕、赤子を念いて、旰食し宵衣す。
言之令長、撫養恵綏。 これを令長に言いて、撫養し恵綏す。
政存三異、道在七糸。 政は三異を存し、道には七糸在り。
駆鶏為理、留犢為規。 鶏を駆りて理と為し、犢(こうし)を留めて規と為せり。
寛猛得所、風俗所移。 寛猛ところを得、風俗の移すところと為る。
無令侵削、無使瘡痍。 侵削せしむる無かれ、瘡痍せしむる無かれ。
下民易虐、上天難欺。 下民は虐げ易きも、上天は欺き難し。
賦与是切、軍政是資。 賦・与はこれ切なれ、軍・政はこれ資れ。
朕之賞罰、固不逾時。 朕の賞罰は、もとより時を逾えず。
爾俸爾禄、民膏民脂。 爾の俸、爾の禄は、民の膏、民の脂なり。
為民父母、莫不仁慈。 民の父母たりては、仁慈ならざる莫れ。
勉為爾戒、体朕深思。 勉めて爾の戒めと為し、朕に体して深思せよ。

うひゃー。

こんなの覚えられるはず無いから「戒石銘」でよかったですね。

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清・顧張思「土風録」巻四より。前蜀の王建のコトバだという説もあったような気がしますが、その説は少なくとも顧張思は採っていないようです。

「戒石銘」は二本松藩まではいいかも知れませんが、今こんなことを言われたら、お役人(公務員)のみなさんは悲しくなってくるのではないかと思います。

上民虐我、天下称黒。

と改竄してあげますか。

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