為之赧然(これが為に赧然(たんぜん)たり)(「捕鼠説」)
今日は昼間居眠りできず、夕方は長時間打ち合わせ。眠い。ネコ、ネズミとも能を争うレベルの能力に低下。

ネズミにだって善と悪、能と無能などがいるであろう。
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幕末か明治の初めごろのことですが、
将捕鼠、俗所用天堂地獄、種種之機咸設。
まさに鼠を捕らえんとし、俗に用いるところの天堂・地獄、種種の機みな設けたり。
ようし、ネズミを捕まえるぞ、と言い出して、一般に使われる上から落とす罠や穴が開く罠など、いろんな罠を設けてみた。
しかし、
猶弗克獲。叱曰蠢之畜、何費圏套為。命童子駆而内諸一室、塞穴隙、使無間。
なお克(よ)く獲ず。叱して曰く、蠢くこの畜、何ぞ圏套を費やすを為さん。童子に命じて駆りてこれを一室に内(い)れ、穴隙を塞ぎて間無からしむ。
それでも捕らえることができない。舌打ちして、
「あのもぞもぞ動くドウブツめ、どうしてネズミ捕りを使うほどのことをするものか」
童子に命じて、ネズミを追わせて一室に閉じ込め、部屋の穴や隙を埋め、隙間が無いようにした。
於是燭蝋煌煌、主人乃索摂其膊、褰裳及帯、手尺箠以入、乱打於八隅。
ここにおいて、燭蝋煌煌として、主人すなわち索してその膊を索し、裳を褰(かか)げて帯に及び、手に尺箠を以て入り、八隅を乱打す。
そうしておいて、家の主人であるわたしは、ひもで袖を括ってその上腕部を剥き出しにし、袴を帯のところまでたくし上げ、手には一尺の長さのムチを持って、部屋のあちことを乱れ打ちした。
鼠也兎起鶻落、幾獲復脱、隣人為之攪睡。方惶急、燭滅。
鼠や兎起し鶻(かつ)落し、ほとんど獲んとしてまた脱し、隣人これがために攪睡さる。方に惶急して、燭滅す。
ネズミはウサギのように飛び跳ね、ハヤブサのように一文字に落下し、獲れると思ったらまた取り逃がしてしまい、隣の人もその音がうるさいので眠りを覚まされるほど、わしは大慌てで叩きのめそうとしたが、ふい、と蝋燭の灯火が消えてしまった。
この間に、
鼠逸入褌、歴脇繞出于背。袒未及乳、鼠跳在窗。
鼠逸して褌に入り、脇を歴て背に繞出す。袒(かたぬぎ)いまだ乳に及ばざるに、鼠跳ねて窗に在り。
ネズミを取り逃がした。ネズミはふんどしの中に入り込みそこからわきの下を経て背中に回り出た。脱ごうとした服がまだ胸までしか脱げてないときに、ネズミはもう一跳びして窗のところにいた。
「けしからんドウブツめが!」
大喝空拳往撃、欄折傷指、乃喚燭。
大喝して空拳にて往撃するも、欄折れて指を傷つけ、すなわち燭を喚ぶ。
大きな声で𠮟りつけて、そのへんを握りこぶしで殴ってみたが、窓の枠が折れて指を傷つけただけとなり、「蝋燭を持ってきてくれ!」と呼んだ。
「はいはい」
童子点且入、問曰、獲已乎。窗間淋漓者、其蠢畜之血耶。
童子、点じてかつ入り、問いて曰く「獲(う)ること已むるか。窗間の淋漓たるは、それ蠢畜の血にあらざるか。
童子が、燭台に火をともして、部屋に入ってきて、わしに訊ねるには、
「もうお捕まえになりまちたか。窗のあたりに血が流れているのは、あのもぞもぞ動めくドウブツの血でちゅかね」
と。
むむむ。
不対。時鼠去已久。主人尚偏袒以立、気茀然湧於胸間未定。顧梁上復槖槖有声。
対せず。時に鼠去りてすでに久しきに、主人なお偏袒して以て立ち、気は茀然として胸間に湧きていまだ定まらず。顧みるに梁上にまた槖槖(たくたく)の声有り。
「槖槖」(たくたく)はネズミなどがモノを齧る音のオノマトペ。
わしは答えなかった。この時、ネズミはもうすでに目の前から消え去ってしまいだいぶん時間が経っていたが、主人のわしは片肌を脱いで立ったまま、いきどおりの気持ちが胸の中で湧き上がってまだ興奮していた。振り向いてみると、梁の上ではまたなにものかが、がりがりと何かを齧っている音がする。
わしの負けだ。
あるひと、これを聞いて、わしに言った、
物各有能、不可相冒。佃当問奴、織当問婢、捕鼠当問猫。
物におのおの能有りて、相冒(おか)すべからず。佃のことは奴に問うべく、織のことは婢に問うべく、鼠を捕らうにはまさに猫に問うべし。
―――ものにはそれぞれ向き不向きがあるんだから、縄張りは犯してはいかん。田んぼ仕事のことは作男に訊かないといけないし、織物のことは女中に訊くのが一番だし、ネズミを捕らえるにはネコに訊かなければならない。
主人以堂堂八尺之躯、乃欲与猫児争能。其罹傷指之凶也固宜。余為之赧然。
主人堂堂の八尺の躯を以て、すなわち猫児と能を争わんと欲するか。それ、指を傷つくるの凶に罹るもまたもとより宜(むべ)なるかな、と。余これがために赧然(たんぜん)たり。
―――おまえさんは堂々たる八尺(一尺≒24センチで計算して、192センチ)の体を持っていながら、にゃんこなどと能力を争うとするのか。それでは、指を傷つけるような悪いことが起こってもしようがあるまい。
わしはこれを聞いて、恥ずかしくて顔が真っ赤になったものである。
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本朝・土井聱牙「捕鼠説」(岡田正之・佐久節編「本朝名家詩文」所収)。専門家に任せて大人は大まかがいいのじゃ、という趣旨の教訓だと思います。同じ趣旨のお話は漢文に多いが、実際にはネコがそんなに役に立つはずがない。
土井聱牙(ごうが。名・有烙)は伊勢・津藩の儒、齋藤拙堂の弟子。明治13年(1880)に六十四歳で卒している。
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