何幸見青天(何の幸いにか青天を見る)(「清通鑑」)
近代なら、せまいながらも楽しい我が家に「わたしの青空」が見えたかも知れません。しかし、古典チャイナの「青空」はそんなにたやすく見えなかったのです。

新天地に出発!できるか?
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清の嘉慶初年(1796~)に湖北、四川、雲貴などを混乱に陥れた白蓮教の乱の最中、四川地方の反乱軍を率いていた王三槐が捕らえられた。
王はもと巫祝を業としていたが、「わしの師(正体は不明)からおまえたち民衆に伝えるように言われた」と称して、次のように予言した。
近将遭大劫、天地皆暗、日月無光。人民非被刀兵水火、即罹奇疾。妻女為人淫掠、世界必一大変。惟入吾教可冀免。
近くまさに大劫に遭い、天地みな暗く、日月光無からんとす。人民、刀兵・水火を被るにあらざれば、即ち奇疾に罹らん。妻女人に淫掠せられ、世界必ず一大変す。ただ吾が教に入れば免かるを冀(ねが)うべし。
「もうすぐ大きな世直しがあるぞ。天地はみな暗くなり、太陽も月も光を失うであろう。人民どもは、刀などの武器、あるいは洪水や火災に被害を受けるであろう。そうでなければ不思議な疾病に罹患してしまうであろう。おまえたちの女房や娘たちは、さらわれて犯されてしまうのだぞ。世界は大変革を起こしてしまうのだぞ。我が白蓮教に入信することでしか、救済を祈る方法はないのだ!」
この言葉を聴いて、多くの人民が入信したという。
嘉慶元年(1796)に各地の白蓮教徒と連絡して反乱を起こしたが、彼には「将才」(軍事的天才)があったらしく、一時は数万の衆を擁して「王元帥」と謳われ、大反乱の一方の指導者と目されていた。
嘉慶三年(1798)、官軍と投降の協議を始めたところでだまし討ちの形で捕らわれて、身柄は北京の嘉慶帝のもとに送られたのである。
嘉慶帝自らこれを尋問し、なぜ反乱したのかを問うた。
官逼民反。
官逼りて民反せり。
「お上が、われらを反乱に追い込んだのでございます」
「ほう」
帝は、さらに問うた、
四川一省、官皆不善耶。
四川一省、官みな善ならざるや。
「四川省は省をこぞって、役人にいいやつはいなかったのか?」
王は言った、
惟有劉青天一人。
劉青天、一人の有るのみ。
「青空の劉さま、ただお一人があるだけでございました」
「青空の劉?」
「青天」のように潔癖、「青天」のように明察、「青天」のように公明正大・・・。
青天者、川民以呼劉清也。
青天なるものは、川民以て劉清を呼ぶなり。
「青天」(青空さま)とは、四川の人民たちが、当時の臨江令であった劉清を称賛してつけた綽名であった。
帝深嘉許之。
帝、深く嘉(よ)みしてこれに許す。
帝は、この発言を深く肯定して、劉清のことを認めた。
ずっと後、反乱もすべて片付き、平和を取り戻した嘉慶十年(1805)、劉清は任期を終えて北京に戻ってきた。
任期中の報告のために皇帝に謁見すると、帝は
「劉清か、ご苦労であった。おまえの名はずいぶん前から知っていたぞ」
と宣うた。
「はは。何故にやつがれごときの名を」
帝は言った、
劉青天之名聞天下。
劉青天の名、天下に聞こゆ。
「劉青天の名前は、誰も知らない者はない」
「ははっ」
しかして、
帝賜詩、首有、循吏清名遠邇伝、蜀民何幸見青天之句。
帝、詩を賜る。首に、循吏の清名遠邇(えんじ)に伝わる、蜀民何の幸いか青天を見る、の句有り。
皇帝はこの日のために用意しておられたという詩を賜った。その詩、すべては伝わらないが、最初の二句は、
善良な官僚の清らかな「清」という名は、遠くにも近くにも伝わっておる。
四川の人民はなかなか幸運ではないか、青空を仰ぎ見ることができたそうな。
とあったそうである。
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「清通鑑」巻一五五・嘉慶三年条より。四川には一人しかいなかったんですね。これぐらいの循吏(善良な官僚)なら、現代ならたくさんいる・・・と思うんですけど。
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