6月30日 今年も半分終了。新しい出発はあるか

何幸見青天(何の幸いにか青天を見る)(「清通鑑」)

近代なら、せまいながらも楽しい我が家に「わたしの青空」が見えたかも知れません。しかし、古典チャイナの「青空」はそんなにたやすく見えなかったのです。

新天地に出発!できるか?

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清の嘉慶初年(1796~)に湖北、四川、雲貴などを混乱に陥れた白蓮教の乱の最中、四川地方の反乱軍を率いていた王三槐が捕らえられた。

王はもと巫祝を業としていたが、「わしの師(正体は不明)からおまえたち民衆に伝えるように言われた」と称して、次のように予言した。

近将遭大劫、天地皆暗、日月無光。人民非被刀兵水火、即罹奇疾。妻女為人淫掠、世界必一大変。惟入吾教可冀免。

この言葉を聴いて、多くの人民が入信したという。

嘉慶元年(1796)に各地の白蓮教徒と連絡して反乱を起こしたが、彼には「将才」(軍事的天才)があったらしく、一時は数万の衆を擁して「王元帥」と謳われ、大反乱の一方の指導者と目されていた。

嘉慶三年(1798)、官軍と投降の協議を始めたところでだまし討ちの形で捕らわれて、身柄は北京の嘉慶帝のもとに送られたのである。

嘉慶帝自らこれを尋問し、なぜ反乱したのかを問うた。

官逼民反。

「ほう」

帝は、さらに問うた、

四川一省、官皆不善耶。

王は言った、

惟有劉青天一人。

「青空の劉?」

「青天」のように潔癖、「青天」のように明察、「青天」のように公明正大・・・。

青天者、川民以呼劉清也。

帝深嘉許之。

ずっと後、反乱もすべて片付き、平和を取り戻した嘉慶十年(1805)、劉清は任期を終えて北京に戻ってきた。

任期中の報告のために皇帝に謁見すると、帝は

「劉清か、ご苦労であった。おまえの名はずいぶん前から知っていたぞ」

と宣うた。

「はは。何故にやつがれごときの名を」

帝は言った、

劉青天之名聞天下。

「ははっ」

しかして、

帝賜詩、首有、循吏清名遠邇伝、蜀民何幸見青天之句。

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「清通鑑」巻一五五・嘉慶三年条より。四川には一人しかいなかったんですね。これぐらいの循吏(善良な官僚)なら、現代ならたくさんいる・・・と思うんですけど。

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