平常之道(平常の道)(「圃隠集」)
ちょっとまともな本も読んでみます。

しうまい弁当以外のまともなものを食いたいものである。
・・・・・・・・・・・・・・
高麗の大儒・鄭夢周が言うに、
儒者之道、皆日用平常之事。飲食男女所同也、至理存焉。
儒者の道は、みな日用平常の事なり。飲食・男女の同じくするところ、また至理存す。
(チャイナから伝わってきた我が)儒学のやり方というのは、すべて日々に用いられる平常の事の中、飲み食いしたり、男と女のみんなが同じようにすることにこそ、本当の真理が存在している、というものである。
超古代の堯帝、舜帝のころからこの考えは続いているわけですが、
堯舜之道、亦不外此。静動語黙之得其正、即是堯舜之道。初非甚高難行。
堯舜の道は、またこれに外ならず。静動・語黙のその正を得るは、即ちこれ堯舜の道なり。初めより甚だ高く行い難きには非ざるなり。
その堯・舜のやろうとしたことも、同じことなのです。静かにしているとき動いたとき、話しているとき黙っているとき、どんなときにも「正しい」状態になるようにしよう、というのが堯・舜のやろうとしたことで、もとより、そんなに高尚で実行しがたいことではない。
ところがじゃ、
彼仏氏之教則不然、辞親戚、絶男女、独坐巌穴、草衣木食、観空寂滅為宗、豈平常之道。
彼の仏氏の教えは則ち然らず、親戚を辞し、男女を絶し、巌穴に独坐して、草衣し木食し、観空寂滅を宗と為すは、あに平常の道ならんや。
あのブッダなんとかの教えは、そうではなく、(離れがたい)親戚から離別し、男女の関係を断絶し、岩山の洞穴に一人座禅を組み、服は草をつなぎあわせた服を着て、木の実や皮や根を食って、空虚を考え滅亡を思うことを指針としている。平常の生活に即したやり方だとは言えまい。
ここで、詩を吟じます。
松風江月接冲虚、正是小僧入定初。
松風の江月冲虚に接するは、正にこれ小僧(しょうそう)の入定(にゅうじょう)の初めなり。
松を風が吹き、大河の上には月が浮かんでいる。この瞬間、世界の中心たる「空虚」がすぐ傍にあることがわかる。
小僧さんが悟りの世界に入るのは、まさにこのことを理解することからだ。
というのだが、
可笑紛紛学道者、色声之外覚真如。
笑うべし、紛紛たる学道者よ、色声の外に真如を覚らんとは。
笑ってよろしいかな、混乱した仏教の道を学ぶ者たちよ、
おまえさんたちは物質と音声(すなわち存在する現世)の外側に、真理を探し求めねばならないとは。
わははは。
・・・・・・・・・・・・・・
高麗・鄭夢周「圃隠集」より。柳承国著・傅済功訳「韓国儒学史」(台湾商務書院民国78)から引用しています。民国78は平成元年です。当時のメモによると、わたしはこの本を平成6年に読み終えているようです。30年前ですが、どういうキモチでこんな本読んでたんですかね。おそらく、出世してでかい墓に入れるかも、給料増えて美味いもの食えるかも、かわいこちゃんとうはうはあ、などと、日用飲食男女のことを夢見ながら読んでいたのでしょう。しかし、その後の経験は、真理は隠棲と出世間にこそあったことを示しているようでもある。
コメントを残す