号鮑君神(鮑君神と号す)(「風俗通義」)
くさやの干物みたいなやつです。

ここは危険な場所だとわからせて、カッパ神さまを祀らせるでカッパ!
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後漢のころ、汝南のある農村で、狩りをして麏(キン。のろ。大鹿)を得た者があった。その人はノロを縛り上げて、車を取りに村に戻った。
そこへ、
商車十余乗経澤中行、望見此麏著縄、因持去、念其不事、持一鮑魚置其処。
商車十余乗、澤中を経て行くに、この麏の縄を著せるを望み見、因りて持ち去るに、その事とせざるを念いて、一鮑魚を持ちてその処に置けり。
商人の車十数台が、谷川の中を伝わってごろごろとやってきた。商人はそこにノロが縛り上げられてるのを見ると、「しめしめ」と持ち去ってしまった。その際、少しは罪滅ぼしになるかと思って、商品の干し魚を一匹、ノロの縛られていたところに置いておいた。
「鮑」(ほう)は和訓では「あわび」ですが、本来は塩漬けの魚を言います。そこで、「鮑魚の肆(し)」というと、干し魚屋さんのこと、臭いがひどいことから、「小人たちの集まるところ」をいう譬喩になります。
有頃、其主往、不見所得麏、反見鮑魚。
有頃(しばらく)ありて、その主往き、得るところの麏を見ずして、反って鮑魚を見たり。
しばらくして、ノロを狩った人が戻ってきた。ところが、獲ったはずのノロは無く、なぜか干し魚があった。
「むむむ?」
怪其如是、大以為神、転送告語、治病求福、多有効験。
そのかくの如きを怪しみ、大いに以て神なりと為し、転送して告語し、治病求福、多く効験有り。
なんでこんなことになったのか、不思議に思い、大々的に神秘的なことが起こっていると言いまわった。その言葉があちこちから伝わると、たくさんの人が、病を治そう、幸福を求めようとしてやってきて、多く願い通りになった。
因為起祀舎、衆巫数十、帷帳鐘鼓。方数百里皆来禱祀、号鮑君神。
因りてために祀舎を起こし、衆巫数十、帷帳鐘鼓せり。方の数百里、みな来たりて祈祀し、鮑君神と号せり。
そこで人々は神殿を作り、いつも数十人のシャーマンがいて、幕を張り、鐘や太鼓を叩いて祈祷をするようになった。このあたり数十キロ四方にわたって、人々はみなやってきてお祈りをし、この神さまを「干し魚神さま」と呼んだ。
数年後、かつての商人がこの場を通った。見ると、たいへんな建物と人出である。
尋問其故。
その故を尋問す。
「どうしたんですか、これは」と人に聴いてみると、ノロがあったところに出現した干し魚の神さまが祀られているのだという。
しばらく考えていた商人であったが、やがて、「このままにしておくのもよろしくなかろう」と言って、
上堂取之。曰、此我魚也、当有何神。
堂に上りてこれを取る。曰く、「これ我が魚なり、まさに何の神有るべきや」と。
神殿に昇って、神として祀られていた干し魚をつかみ取った。
「あわわ」「た、たたりが」
と慌てふためくシャーマンたちに、
「これはもともとわしの魚じゃ。いったいどこに神さまが宿っているのか」
と言って、棄ててしまった。
遂従此壊。伝曰、物之所聚、斯有神。言人共奨成之耳。
遂にこれによって壊す。伝に曰く、「物の聚まるところ、すなわち神有り」と。人の共にこれを奨成するのみなるを言う。
これによって、とうとう神殿は崩壊してしまった。
いにしえより伝わるコトバにいう、
「いろんな物が集まると、そこに神さまが生まれる」
と。人間がみんなで神さまを育成するだけだ、という意味である。
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後漢・応劭「風俗通義」怪神第九より。どこかの干し魚もそろそろ取り除いた方がいいんじゃないの? だが、持ち去ったノロを一体どんなやつらが山分けしてしまったかも追及してほしいなあ。
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