飄然付大塊(飄然として大塊に付す)(「袁中郎詩集」)
みなさんいつもいろいろありがとう。

妖怪なれどもやる気なし。
・・・・・・・・・・・・・・・・
久しぶりでいいの見つけました。
是官不垂紳、是農不秉耒、是儒不吾伊、是隠不蒿莱。
これ官なれども紳を垂れず、これ農なれども耒(らい)を秉(と)らず、これ儒なれども「吾伊」(ごい)をせず、これ隠なれども蒿莱(こうらい)せず。
(わたしは)官に属しているのだが、でかい帯を垂らして毎日お勤めしているわけではない。
もとは農家なのだが、鋤を取って耕す暮らしをしているわけではない。
儒者なのだが、「吾伊」(ご・い)と声を上げて本を読んでいるわけではない。
隠者なのだが背の高い草に覆われた家に住んでいるわけではない。
田舎の知識人として普通に暮らしているんです。
是貴着荷芰、是賤宛冠佩、是静非杜門、是講非教誨。
これ貴なれども荷芰を着け、これ賤なれども宛として冠佩し、これ静なれども杜門するにあらず、これ講すれども教誨するにはあらざりき。
(官吏としての)身分はあるのですが、ハスの茎で作った(貧乏人の)服を着ている。
(えらい人の間には交わらず)身分は低いのですが、(役人なので)当たり前のように冠をかぶり腰に玉をぶらさげている。
生活は静かであることを重視しているが、門を閉ざしてしまっているわけではなく、
学校で講義したりするのだが、こうあるべきだと教え諭しているわけではない。
そして、
是釈長鬢鬚、是仙擁眉黛。
これ釈なれども鬢鬚(びんしゅ)を長くし、これ仙なれども眉黛(びたい)を擁(いだ)く。
仏教徒(で出家しているようなつもり)なのだが、髪の毛もあごひげも長いまま、
仙人(を目指しているつもり)なのだが、まゆずみをつけたおんなを抱いたりする。
生活をしております。うっしっし。いいとこどりですね。
倐而枯寂林、倐而喧囂闠。
倐(しゅく)として枯寂の林、倐として喧囂(けんごう)の闠(かい)。
「倐」は「速い」「突然に」。
ある時は枯れて寂しい林にいるかと思えば、
ある時はけたたましく喧しい街のちまたにいたりする。
そして、
逢花即命歌、遇酒輒呼簺。
花に逢えば即ち歌を命じ、酒に遇えば輒ち簺(さい)を呼ぶ。
花にあえばすぐに(妓女(うたひめ)に)歌をうたうように命じ、
酒があればもちろんのこと、サイコロを持ってこさせて(バクチに)大騒ぎする。
一身等軽雲、飄然付大塊。
一身は軽雲に等しく、飄然として大塊に付せん。
人間の生命などふわふわした雲と同じ(く、あっという間に消えていく)ではないか、
何物にもこだわらずに(荘子のいう)「大いなるかたまり」すなわち天地に身を任せてしまおう。
そろそろ大塊に任せて消えていこう・・・と思うのです。みなさんも「早く行け」と思っているかも知れません。しかし、もう少しいようかなあ、と思ったりもします。他の人もそんな感じで現世でまだうろうろしているんだろうなあ。今日も夕方の弁当は美味しかったしなあ。
試問空飛禽、澄潭影何在。曠哉龍屈伸、頽焉方外内。
空飛の禽(とり)に試問す、澄潭の影何(いずく)に在りや。曠(こう)なるかな龍の屈伸、頽焉(たいえん)たり方の内外。
虚空を飛ぶ鳥に訊いてみよう、
おまえが澄み切った淵に映した影は、どこに行ってしまったか。(現世にいるのはあっという間のことではないか。)
それに対して広大なのは龍の伸び縮みだ、
現世の内側から外側まで、ごろごろしているぞ。(宇宙の根源に我々も帰ろうではないか。)
前半は、「鳥の影が水に落ちる。鳥は影を残すつもりはなく、水は影を映すつもりがない。鳥飛び去れば影は残らない」という禅語があるらしく、それを踏まえているそうです。
結論。
下恵本介和、夷逸乃清廃。
下恵(かけい)もとより介にして和、夷逸(いいつ)すなわち清にして廃せり。
柳下恵(りゅうか・けい)はもともと直情だが和やかなひと、夷逸はまったく潔癖で辞めさせられたのだ。
この二人は「論語」微子篇に出てくる「逸民」の中から拾ってきて、自分の目指すスタイルとして掲げたのです。
「論語」にはどう出てくるかと言いますと、
逸民、伯夷、叔斉、虞仲、夷逸、朱張、柳下恵、少連。
逸民には、伯夷、叔斉、虞仲、夷逸、朱張、柳下恵、少連あり。
世を逃れた賢者といえば、伯夷、叔斉、虞仲、夷逸、朱張、柳下恵、少連が有名である。
実際どんな事績のあった人だったか、というのは古来いろいろ注釈もあるところなのですが、ここは孔子の評価だけ読んでみます。
子曰、不降其志、不辱其身、伯夷・叔斉与。
子曰く、その志を降さず、その身を辱めざるは、伯夷・叔斉か。
孔先生はおっしゃった―――(この中で)おのれの志すところを引き下げることなく、おのれの名誉を辱めることが無かったのは、伯夷と叔斉だけだろう。
謂柳下恵・少連、降志辱身矣。言中倫、行中慮。其斯而已矣。
柳下恵、少連を謂うに、志を降し身を辱めたり。言は倫に中し、行は慮に中す。それ、これなるのみ。
柳下恵と少連については、おのれの志すところを引き下げしまい、おのれの名誉を辱めてしまった。とはいえ、彼らの言葉は倫理に適っていたし、行動は思慮あるものだ。彼らは十分である。
謂虞中・夷逸、隠居放言、身中清、廃中権。我則異於是。無可無不可。
虞中、夷逸を謂うに、隠居して放言し、身は清に中し、廃して権に中す。我はすなわちこれに異なれり。可もなく不可も無し。
虞中と夷逸については、隠棲して好き放題言っていた人たちだ。おのれの名誉は守られていたし、官職は辞めていて結果的には正しかった。しかし、わしは彼らには同意できない。まあ、よくも無ければ悪くもない、というところかな。
朱張については評価もされていません。( ;∀;)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
明・袁宏道「人日自笑」(人日(正月七日)に自ら笑う)(「袁中郎詩集」所収)。「かふいふ人にわたしはなりたい」を付けるとわかりやすいのではないかと思います。「なったらいかんよ」という教えかも知れません。
コメントを残す