未嘗蓄狸(いまだ嘗て狸を蓄わえず)(「宣室志」)
心温まる物語だ。

おいらたちはかなり利己的なんでちゅよ。
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唐の宝応年間(762~763)、洛陽に李某というひとが住んでいた。
其世不好殺、故家未嘗蓄狸。
その世に殺すを好まず、故に家にいまだ嘗て狸を蓄わえず。
「狸」(り)はネコのことです。
生きている間、殺生をいやがって、その家ではネコを飼っていなかった。
所以宥鼠之死也。
以て鼠の死を宥(ゆる)すところなり。
ネズミを捕ってコロしてしまわないようにするためであった。
ネコはネズミもセミもゴ〇ブリもコロして食べてしまいますからね。危険です。
李某が亡くなってから、
迨其孫亦能世祖父意。
その孫に迨(およ)ぶまで、よく祖父の意を世にす。
その孫の世代まで、よく祖父の遺志を代々継いで、殺生を避けていた。
孫の時代ですから、九世紀の初めごろでしょうか、
一日、李氏大集其親友、会食於堂上。
一日、李氏大いにその親友を集め、堂上に会食す。
ある日、李家では、大いに親類や友人たちを集めて、正堂の建物で宴会をしていた。
理由は書いてないのですが、結婚式とか長寿祝いなど、めでたいことがあったのでしょう。
そこへ、
家僮驚異、告於李氏。
家僮驚異して、李氏に告ぐ。
家の下男が、何かに驚いたように主人の李氏のところに来て、異常を訴えた。
下男が言うには、
門外有群鼠数百、倶人立。以前足相鼓、如甚喜状。
門外に群鼠数百有りて、ともに人立す。前足を以て相鼓して、甚だ喜ぶが如き状なり。
「門の外に、ネズミ数百匹、群れてやってきて、みんな二本足で立っておるのです。前足をぽんぽんと叩いて、何かえらく喜んでいるようなのです」
「なんじゃと? そんなことがあるものか」
「あるんです。とにかく、見に来てください」
というので、
李氏親友乃空堂而縦観。
李氏と親友、すなわち堂を空しくして縦に観る。
そこで、李の御主人と親類や友人たちは、堂を空っぽにして見に行った。
「やや! 本当じゃ」「不思議だ」「ひひひ、かわいいのう」
という声を聞いて、何人か残って酒食を漁っていたものたちも、見逃してはならじと席を離れて門に向かった。
人去且尽、堂忽摧圯。
人去りてまさに尽きるに、堂たちまち摧圯す。
人が一人もいなくなった瞬間、堂は突然崩れおちたのであった。
其家無一傷者。堂既摧而群鼠亦去。
その家に一傷者も無し。堂既に摧けて群鼠また去れり。
このため、その家には一人のけが人も無かった。そして、堂が崩れてみんな驚いているうちに、群鼠たちはいつの間にかいなくなってしまった。
悲夫。
悲しいかな。
悲しいことではありませんか。
何が悲しいのだろうか。
鼠固微物也、尚能識恩而知報。況人乎。
鼠はもとより微物なるも、なおよく恩を識りて報うるを知る。いわんや人をや。
ネズミはあんなにちっぽけなドウブツなのだ。それでもなお、恩義を認識して何かで報いようとする。人間こそ、もちろんそうであるはずなのに・・・。
そうなっていないから悲しいんですね。
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唐・張讀「宣室志」巻三より。久しぶりで唐代の小説を読む。近世以降の人間の知恵が入ってないので、何だかわからないけど爽やかな読後感があります。人間と自然がまだ大らかに交感しあえる時代だったのでしょう。
ネズミたちはもしかしたら、
「ごめんなちゃい、堂の柱、おいらたちがほとんど食ってしまいまちたでチュー」
「もうすぐ崩れるので、許してチュー」
「恩を仇を返すけどごめんでチュー」
と言いに来ていて、ほんとに堂が崩れたので
「うわー、かんべんしてチュー」
と言いながら逃げ散っていった・・・だけかも知れませんが、そんな邪推をするのは後世のさかしら心であろう。
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