6月16日 若いひとたちを困らせてはいけません

女子知有我(女子、我有るを知る)(「後漢書」)

とはいえ、賢者がいつまでも世間におもねっているわけにはいきますまい。ひいっひっひっひ。

父の日です。父は永遠に悲愴である(萩原朔太郎)。あんまり隠棲していると親父に叱られるかも知れんぞ。

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後漢の韓康は字を伯休、あるいは恬休ともいい、京兆(長安)覇陵の人である。

常采薬名山、売於長安市、口不二価、三十余年。

つまり最初に高く出て、後で「わかった、しようがないなあ」と言って安い値段で売る、という「二つの値段」をつけなかったのです。

ある時、

有女子従康買薬、康守価不移。

すると、

女子怒。

あわわ。そして曰く、

公是韓伯休那。乃不二価乎。

韓康はこの言葉でショックを受けた。誠実な商売をしていても怒られたから、ではなく、

我本欲避名、今小女子皆知有我、何用薬為。

そうして、

遯入覇陵山中。

ほんと女性のお方は迷惑だなあ。あ、韓康の観点から、という意味ですよ。あっしじゃございやせん。へへへ。

時の皇帝(桓帝:在位146~168)は、韓康のうわさを聞いて、ぜひ都・洛陽に来て仕官するようお求めになり、覇陵の山中に

以安車聘之。

「安車」は安らかに乗れる大きな車、の意味です。とりあえず、「レクサス」とか商品名を出すといけないので、「でかい黒塗り」と訳しておきます。

使者奉詔。

皇帝じきじきのお召しでは仕方ありません。

康不得已、乃許諾。辞安車、自乗柴車、冒晨先使者発。

「柴車」というのは「柴で作ってある」という意味ではなく、「柴」=薪木にでもするような粗末な車、という意味です。

山から出て宿場まで来ますと、

亭長以韓徴君当過、方発人牛修道橋。見康柴車幅巾、以為田叟也。

使奪其牛。

「(これは好都合じゃ。)よしよし、わかりましたぞ」

康即釈駕与之。

そのとき、何やらツノに書きつけて、車を乗り捨てて行ってしまったのである。

有頃、使者至、奪牛翁乃徴君也。

その時には、その老人・韓康はもうどこかに姿をくらましていた。

使者、欲奏殺亭長。

よく見ると、ウシのツノに何か書いてある。読んでみると、

此自老子与之、亭長何罪。

「むむむ」

乃止。

康、因中道逃遯、以寿終。

そのあとの後漢末の大混乱に巻き込まれることもなかったのである。

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「後漢書」巻八十三「逸民列伝」より。わしは小女子どもに名前を知られていないので、いまも都会で暮らしているのでございますよ。

いい本の紹介がありましたので紹介しておきます。みなさんも読むといいかも。別にためにはならないかも。

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