如甑蒸飯(甑(こしき)の飯を蒸すが如し)(「朱子語類」)
やはりまずは飯だ。按ずるに、筆は一本、箸は二本、衆寡敵せずと知るべし、と古人(齋藤緑雨先生)曰えり。

ウナギを思えば食も進むというものである。
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「先生、天地(宇宙)の心(思い・志向)とはどのようなものなのでしょうか?」
時は南宋の時代です。先生は答えた。
天地以生物為心。譬如甑蒸飯。気従下面袞到上面、又袞下。只管在裏面袞。便蒸得熟。
天地は生物を以て心と為す。譬うれば甑(こしき)の飯を蒸すが如し。気、下面より上面に袞し到り、また袞し下る。只管(しかん)に裏面に在りて袞す。すなわち蒸し熟を得ん。
「袞」(こん)は「滾」(こん)の意味で使っています。「たぎ・る」。「甑」(そう。こしき)は米を蒸す道具。ほんとは違うけどとりあえず「圧力釜」と訳しておきます。「熟」は「煮る」「煮える」。
天地宇宙は、モノを生み・生かすことだけを思っているのだ。たとえてみれば、圧力釜でごはんを蒸すようなものじゃ。むんむんした蒸気が下から上に向かって滾りあがり、また対流して滾り下る。釜の中ではひたすら滾っている。そうすれば、コメは蒸されてごはんになるんじゃ。
巨大な圧力釜なので、
天地只是包許多気在這裏、無出処。袞一番便生一番物。他別無勾当。只是生物、不似人便有許多応接。
天地ただこれ、許多(きょた)の気を這(こ)の裏に包み、出処無し。袞すること一番にして一番の物を生む。他に別に勾当無し。ただこれ物を生む、人のすなわち許多の応接有るに似ず。
天地宇宙はほんとに、もすごく多い蒸気をその中に包み込んでいて、出口が無いのじゃ。一回滾ると一つのモノを生み出す。それ以外に役割は何も無い。ほんとにただモノを生むだけで、人(の心)がたくさんのことに対応しているのとは違う。
「圧力釜」とは別のたとえをすると、
但如磨子相似。只管磨出這物事。
ただ磨子の如きに相似たり。只管にこの物事を磨し出だす。
そうじゃなあ、碾臼(ひきうす)のようだ、というのがよかろうか。(上の孔からコメやムギを入れてごりごりと把手を回すと)ひたすらにそのモノを碾いて粉にして横から出す。
まあ、あとは人間に似ているかな。
人便是小胞、天地便是大胞。人首円象天、足方象地。中間虚包許多生気。
人はすなわちこれ小胞、天地はすなわちこれ大胞なり。人の首の円なるは天に象(かたど)り、足の方なるは地に象る。中間の虚に許多の生気を包めり。
人間はつまり小さい細胞、天地宇宙はつまりでかい細胞だ。人間の頭が丸いのは、天が丸いのに似せてあり、足が四角いのは大地に似せてあるのじゃ。その間のからっぽのところ(胃とか腸とかのなか)に大量のむんむんした気を包み込んでいる。
「四角い」のは足首から先の靴を履く部分のことですよ。しかし大地が「四角い」というのは現代人としては納得いきません。むかしの人はオロカだから、
「ああそうですなあ、大地は四角いですなあ」
と頷いたりしていたのでしょうけど。
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「朱子語類」巻五十三より。最後はわれわれ現代の人の方がすぐれていることが明らかになりました。
われわれ現代の人は劣っている東洋のむかしの賢者に学ぶ必要は無いから、毎日テレビやネットを見て情報を消費していよう、と。
経営セミナーなどに行けばさらに賢者になれるようですけど。
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